話芸の神様 徳川夢声

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徳川夢声
徳川無声
 
「小次郎っ。負けたり!」
「なにっ!」
「きょうの試合は、すでに勝負があった。汝の負けと見えたぞ。」
 ここ、本町の益田市立歴史民俗資料館の館内に流れている朗読に思わず立ち止まり、聞き入ってしまいます。朗読されている本は、国民の書とまで言われた吉川英治の長編時代小説『宮本武蔵』です。この朗読の主こそ益田市が生んだ「話芸の神様」、徳川夢声です。
「夢声さん、あなたの職業は何ですか?」
 生前、夢声はこの質問に答えるのが一番困ったそうです。彼は弁士であり、漫談家であり、小説家であり、随筆家であり、映画俳優であり、舞台俳優であり、ラジオやテレビに出演するマルチタレントでもありました。そんな夢声はどんな人生を送ったのでしょうか。
 
 夢声の本名は福原駿雄といいます。一八九四(明治二十七)年四月十三日、益田町折戸(今の益田市本町)で生まれました。すぐに父の転勤で津和野に移り住み、四歳の時には東京で生活するようになりました。
 
生誕地の案内
生誕地の案内
 
夢声13才の頃
夢声13才の頃
 
 駿雄は小学校のころから泣き虫でしたが、おしゃべりが達者でした。雨の日には、教室に友達を集めて、聞き覚えた落語を自分なりに工夫して独演会を開き、大いに笑わせていました。そのころから、駿雄は将来落語家になろうと強く思っていたのです。
 東京府立第一中学校(今の東京都立日比谷高校)を卒業した後、あこがれていた落語家への道を決意します。三遊亭円歌師匠の元に入門しようと毎日毎日足を運びました。やっと許可がおりたので、父にそのことを話しました。
「お父さん、私は落語家になりたいのです。いいでしょうか。」
「うーん。落語家は困るなあ。どうだ、活弁という仕事がある。おもしろいぞ。やってみんか。」
 活弁とは「活動写真(無声映画)の弁士」の略で当時花形の仕事でした。落語家と弁士とはずいぶんと違う仕事です。駿雄は少し迷いましたが、もともと話すことが好きで、好奇心旺盛でしたので、父のいうとおりやってみることにしたのです。
 十九歳の時、映画館の弁士、清水霊山に弟子入りしました。見習い弁士として、「福原霊川」という名前をもらい、三日目にして、舞台に立ちました。先輩の羽織袴を借りて、弁士としてのデビューです。
「ええ、私は今晩、生まれて初めてこのようなところに立ちました。」
「わりに、うまいぞ。その調子だ。」
 思いがけなく、客席から声がかかりました。
「こんなにもお客様に喜んでもらえる。なんて幸せな仕事だ。これからもがんばるぞ。」
 駿雄は一生、この一声を忘れることはありませんでした。
 それからというもの、駿雄はあちこちの舞台に立ちながら、自分の芸に磨きをかけていきました。そして、二十一歳の時、洋画専門の高級映画館「赤坂葵館」で弁士として雇われました。映画館の支配人は会うなり、駿雄を呼んで言いました。
「福原霊川という弁士名を変えてくれないか。」
「わかりました。それなら、みんなで勝手に名前を考えてくれませんか。」
 駿雄は、まるで人ごとのように答えました。そして、決まったのが『徳川夢声』でした。「徳川」は葵館の葵が徳川家の紋章という理由から、「夢声」は夢のある無声映画弁士になるようにとの願いから付けられました。
「何だか、たいそうな名前だなあ。」
 駿雄は、この名前にとまどっていました。
「でもみんなにつけてもらった名前だし、しばらくはこの名前でいくしかないな。」
 駿雄の心配をよそに、徳川夢声という弁士名になってから、仕事が大変順調で、一気に花形弁士になりました。少ない言葉と独特の語り口は当時としては画期的なもので、多くの人の評判を呼びました。
 しかし、人生に大きな転機が訪れます。
 それは、昭和の時代になってトーキーが登場したからです。トーキーとは、映像に音声や音楽がついた今のような映画です。弁士が要らなくなりました。夢声は苦境に立たされました。そして、ついに三十九歳の時、弁士の職を失ったのです。
「弁士以外に自分にいったい何ができるか…。」
 夢声は必死に考えました。しかし、頭に浮かぶのは、自分の語りと映像によって、喜びそして悲しむ観客の顔ばかりです。夢声のそばには、まだ幼い我が子とかいがいしく働く妻の姿がありました。
「家族のためにも、ここでやめるわけにはいかない。どうすればいいのか。」
 夢声は自らに問いかけました。今までの自分、今の自分、そしてこれからの自分…。今までがむしゃらに自分の道を迷わず突き進んできた夢声にとって、それは苦しい問いかけでした。
「映像の助けのない俺の語りだけで、聞く人の心を動かすことができるのか。今の力ではおそらく無理だろう。語る内容も乏しいし、話芸も未熟だ。」
 夢声は冷静に今の自分を見つめます。
「やはり、俺には語ることしかない。あらゆる機会を利用して自分の話術を鍛え、その話術によって人を感動に導く、これからの俺の進む道はこれしかない。」
 夢声の出した結論でした。夢声の目にはもう迷いはありませんでした。
 それからというもの、夢声は多方面で働き始めます。俳優として舞台に立ったり、映画に出たり、本を書いたりするなど、自分の話術を伸ばすためにいろいろな分野に挑戦しました。その中にあって、一段と光を放っていたのは、NHKラジオでの『宮本武蔵』の朗読でした。『宮本武蔵』の朗読は、戦後も一九六一(昭和三十六)年から二年にわたり放送され、全巻朗読を成し遂げ、まさに夢声の生涯の仕事となりました。
 
ラジオ生放送中の夢声
ラジオ生放送中の夢声
 
 夢声がいつも大切にしていたことを、著書『話術』に書いています。それは、日本語という言葉です。私たちが何気なく使っている空気のような言葉-日本語。夢声がいつも心がけていたことは、その日本語を大切にすることでした。夢声が語ることで、日本語はさらに磨かれ、美しさを増していきます。また、夢声のたゆまない勉強から導かれる話には、教養の広さと深さが感じられました。夢声は、語りを通し、日本語を愛し、日本語を育てていったのです。
 
 一九七一(昭和四十六)年、夢声は多くの人に惜しまれながら、七十七歳で亡くなりました。益田市は夢声の功績を称え、辻の宮八幡宮境内に夢声自身が選んだ句碑を建立しました。
 
徳川夢声句碑
徳川夢声句碑
 
 送り火の けむりに何を 見つむるぞ
 
 この句は、三歳の時生き別れた母の死を悼んで詠んだものです。夢声はふるさと益田の地に、恋しい母のぬくもりを感じていたのでしょう。人の心に届く言葉を探し続けた夢声にとって、亡き母へ向かって何かを伝えようとしたのかもしれません。
 
☆もっと調べてみたい人は、益田市立歴史民俗資料館の人に聞いてみましょう。