なに 徳島さっても それはまあなつかしい
わしが生まれも 徳島
そして ととさんやかかさんといっしょに 巡礼さんすのか
~益田糸あやつり人形演目〈傾城阿波の鳴門巡礼歌の段〉より~
今日も、人形つかいの藤永嘉寿代は語りと三味線にあわせて、「歩み」という材の上に膝を落として一心に人形を動かします。腰を前に深くかがめて、人形の体中についている糸を引いたりゆるめたりして動かし、人形に命を吹きこみます。嘉寿代があやつる人形は、まるで生きているかのようです。それは、人形を胸にだき、わが子に話しかけるように、言い聞かせているからです。
糸あやつりの舞台
「人形は心であつかうもの。笑い方や泣き方は、いく通りもある。わたしは、笑いに三年、泣きに八年かかった。」
人形つかいの嘉寿代を夢中にさせた糸あやつり人形とは、どんなものなのでしょう。
藤永嘉寿代(レディースますだ提供)
嘉寿代は、一九一五(大正四)年、今の益田市桂平で生まれ、広島の看護学校を卒業した後、念願の助産師(※妊娠や出産を助ける仕事をする人)になりました。そして、結婚し、子どもも二人生まれました。三十六歳のときに、芝居や浄瑠璃(※三味線を伴奏に使い、台詞と旋律によって物語を進めていく演劇)の教室に入り、仲間と楽しく過ごしていました。幸せにくらしていた嘉寿代でしたが、四十六歳のある日、突然、夫が亡くなってしまいました。しかし、悲しんでいるひまはありません。嘉寿代は、子どもを育てるために、必死で働き続けました。
そんな時、嘉寿代は「糸あやつり人形」に出会いました。
「何だか、おもしろそうだな。ちょっと、やってみようか。」
嘉寿代は、すぐに糸あやつり人形を習うことにしました。糸あやつり人形とは、三味線と義太夫(語り手)と人形のつかい手が、息を合わせて一緒に演じる人形劇のことです。無我夢中で練習をしているうちに、嘉寿代は、糸あやつり人形の魅力に取りつかれていました。
三味線と義太夫
もともと、益田で糸あやつり人形がはじまったのは、一八八七(明治二十)年ごろで、東京で人形あやつりをしていた山本三吉が伝えたと言われています。三吉は、当時大阪で一番腕のいい人形師大江定丸に、天下一の人形をつくらせ、益田で糸あやつりを広めました。しかし、この芸を身につけるには多くの経験や強い体力が必要だったので、だんだんと後をつぐ人が少なくなりました。それでも、この大切な芸を、このままなくしてはいけないと思った人たちが、〈益田糸あやつり人形保持者会〉を作りました。嘉寿代は、この会の一員になったのです。
嘉寿代は、時間を見つけると、三味線を背負って自転車をこぎ、稽古に通いました。稽古中にお産の仕事が入ると、師匠の家に三味線をおいて、舞台用の化粧をしたまま、お産に駆けつけたほどでした。
人形のつかい手
しかし、稽古はとても厳しいものでした。
「なんだ!その声は。人形の使い方が悪い。」
「もっと人形の気持ちになって動かせ。」
師匠の厳しい声がとんできます。
「どうして、うまく動いてくれないの。どうして…。」
糸あやつりでは、二メートルも上から、二十本近くの糸を人形に結びつけた手板を使って人形をあやつるのです。手の先だけで微妙な人形の表情を表現するのは、とても難しいことでした。しかも、動作によっては、手だけではなく、足の指や歯まで使います。さらに、登場人物が多いときには、一人二役をすることもあります。そんな時は、人物ごとに、微妙に動き方を変えていかなくてはいけません。
「人形をもっと上手に動かさなきゃ…。絶対にあきらめない。」
しかられても、しかられても、嘉寿代は決してくじけませんでした。嘉寿代は、どうしたら人形を上手に使えるのか、いつも考えていました。それでも、人形は自分の思うとおりには動いてくれません。
「なんだ、その動きは。何年やってるんだ!」
今日も、師匠の厳しい声が部屋中に響きます。嘉寿代は、目の前にある定丸の人形を前にして、自分のいたらなさをくやみました。
大江定丸がつくった人形(三番叟)
「この人形は日本一。このままでは、人形に申し訳ない。」
人形をじっと見つめていた嘉寿代は、そのとき、はっと気がつきました。
「そうだ。人形をあやつる時は、人形になりきること。そうしないと、人形は動いてくれない。」
人形を動かすことより、人形になりきること。それは、まるで人形が教えてくれたような気がしました。それからまた、心を新たにして、いっそう熱心に練習に励んでいきました。
こうして、嘉寿代は助産師を三十年続けながら、浄瑠璃五十年、糸あやつり三十五年と、ずっと芸をみがき続けました。嘉寿代は、八十歳を過ぎても、糸あやつり人形に対する情熱を失いませんでした。そして、世界人形フェスティバルにも参加し、世界中の人たちに糸あやつり人形のすばらしさを伝えました。
公演中、人形のつかい手は数回、客席に姿を見せる
現在、保持者の会員は約二十人。日本古来の糸あやつりの形をそのまま伝えるために、保持者会ができてから、約五十年になります。会員のみなさんは、糸あやつりのおもしろさを子どもたちにもぜひ知ってほしいと、学校に出かけて、糸あやつり人形のすばらしさを伝えています。
「いくらやっても思うように人形が動いてくれないの。〈この手はこっちにやりい、言うたろうね!〉と人形とけんかしたりしてね。でも、使いよるうちに、人形がだんだんかわいくなるんよね。」
と、嘉寿代たちの教えをうけた会員のみなさんは話します。
全国でもただ一つ、益田に残された昔のままの糸あやつり人形。その保存と伝承のために、会員のみなさんは、今日も汗をかきながら特訓を続けています。
小中学生を対象に開かれたワークショップ
☆もっと調べてみたい人は、「益田糸あやつり人形保持者会」の人に聞いてみましょう。