日本ではじめて女医が誕生したのは、一八八五(明治十八)年の春。第一号は荻野吟子でした。
そのころは、医者といえば男子ばかりで、女子が医者になることは考えられないことでした。また、実際に医者になる勉強をしたくても、女子が入れる学校もありませんでした。地方では、聴診器をもった医者を見ると、「あのお医者さまはゴムで病気をみなさる。」と、たいへん珍しがられる時代でした。
このような時代の中で、益田でも、ひそかに「医者になろう。」と心に決めていた人がいました。右田朝子です。
中央が右田朝子、左が千坂竹子、右は前田園子
(東京女子医科大学史料室提供)
朝子は、一八七一(明治四)年、現在の益田市中吉田町に生まれました。六歳のとき右田家の養女となり、教育熱心だった養父母のもとで、勉強をすることの大切さを教わりました。
しかし、養女に行って間もなく、やさしかった養父が亡くなったのです。その時、朝子は、「医者になって、病気で苦しんでいる人を助けてあげよう。」と、心に誓いました。
一八八四(明治十七)年、女子も医術開業試験(医師になるための試験)を受けることができるようになりました。さらに、翌年には、東京にあった私立の医学校「済生学舎(※一八七六(明治九)年、長谷川泰により創設。多くの開業医を出したが、一九〇〇年専門学校令の公布により廃校)」が、女子の入学を認めたのです。
こうして、女医への門戸が開かれたことを知った朝子は、一八八八(明治二十一)年、「済生学舎」に入学しました。希望にあふれた十七歳の春でした。
ところが、「済生学舎」に入ったものの、もともと男子だけの学校でしたので、「女子は医者に向かない」という古い考えを持った人たちが多く、少人数の女子学生にとっては、周囲の冷たい目や、いじわるなことばに耐えなければならない日々の連続でした。
さらに、この学校で一生懸命に勉強しても、必ず医者になれるという保証はありませんでした。
「ほんとうに自分は医者になれるのだろうか。このままがんばり続けるか。もうあきらめてどこかのお嫁さんになるのがよいのでは。」と、心が揺れ、不安な気持ちにかられることもありました。そんな自分の姿を気遣い、生活費や学資を送り続けてくれる家族たちのことを思うと、「決して弱い気持ちになってはいけない。」と、朝子は思うのでした。
そして、つらい時には、養父母から教わったうたを思い出しました。
はてしなき浪間漂う捨小舟いつかは着かん思う湊へ
そんな朝子にとって大きな支えとなったのは、家族のほかに、ともに夢に向かって手を携えあっていく友がいることでした。
〈私には二人の友人あり。一人は前田園子さん。もう一人の千坂竹子さんは同じ国(現在の津和野町)の人で、この二人は同じ済生学舎へ通う同窓の友にして、心の友なり。わずか三人であっても、幾百万人に勝るほどたいせつな友だちなり。〉
三人は志を同じくした仲間であり、友を大切にしあうクリスチャン(キリスト教の信者)でした。とりわけ竹子は、同郷ということもあって友だちの中の友だちでした。しかし、その竹子が医者になる試験を目前にして、重い病魔におそわれたのです。朝子は、親身になって看護につとめました。受験勉強には看護の合間のわずかな時間をあてました。しかし、その必死の看護のかいもなく竹子は二十一歳の若さで亡くなりました。
人その友のため己の命を棄つるは是より大なる愛はなし
この句は、荻野吟子が愛唱していたことばでしたが、朝子もまた竹子のために愛唱していたのでしょうか。その後も、朝子の懸命な苦学は続きました。
一八九三(明治二十六)年、ついに、朝子は夢に見た医術開業試験に合格しました。この合格によって、晴れて眼科女医となりました。それは日本の眼科女医第一号の誕生でもありました。
合格証を手にしたとき、朝子の頭の中をかけめぐったものは、合格を喜んでくれている家族たちの姿でした。この喜びは、「自分の合格を喜んでくれる人たちのために喜ぶべきだ。」と、心から思うのでした。
〈これからいっそう眼科の研究をして世に立つ決心なり。〉
朝子は、合格の喜びを力強く日記に書きました。この喜びは、新しい医学を身につけるためにドイツへ留学したいという大きな願いでもありました。「朝は四時頃より起きて、夜も十一時頃まで床に入らない。」と誓いを立て、再び夢に向かって新しい挑戦を始めました。
一八九八(明治三十一)年、朝子が医学生であったころから師事(先生として教えを受けること)していた眼科医院の院長が、ドイツでドクトル(博士号)の学位を得て帰国したのです。朝子は、ふたたびこの病院に迎えられて研究を続けることになりました。朝子の留学の夢は一段と近づきました。
しかし、このころ、朝子の身体を肋膜炎という病が深くむしばんでいたのです。眼科専門女医として迎え入れられてわずか数か月後、ドイツ留学の夢を目前にしてこの世を去りました。
〈私の眼球を研究のために役立ててください。〉
病気の快復の見込みがなく、余命いくばくもないことを覚った朝子が書いた、二十七歳の遺言でした。
朝子が亡くなって四年後、日本女医会が創立されました。その中心になったのは、かつて朝子や竹子たちと夢を語り、苦楽をともにした前田園子でした。
わが国最初の女性の眼科専門医として、医学の世界にあらたなページを開いた朝子は、いま益田の地で静かに眠っています。
女医右田朝子之碑
☆一八九九(明治三十二)年、朝子の早世(若くして亡くなること)を悼む多く人たちが、朝子のことをいつまでも忘れないようにと「女医右田朝子之碑」を建てました。現在「女医右田朝子之碑」は、東京都北区にある古刹大龍寺の境内にあり、朝子を追慕する人たちの手によって、四季の花が添えられています。