「こころ」を一つにして-忘れない 昭和五十八年七月豪雨

32 ~ 37 / 229ページ
 
 「こわい、こわい。どうなるの。はやく雨がやんでほしい。」
 君子は二階の窓から外を見て、懸命に願いました。君子の腕に二年生の弟がしがみつき、ふるえています。
 一九八三(昭和五十八)年、七月二十三日。その日の朝、大きな雨の音で目が覚めました。時計を見ると、六時。窓の外は、バケツをひっくり返したようなものすごい雨で、目の前がよく見えません。君子の家がある益田の町は道路に水があふれ、川のようになっていました。君子はあわてて台所へ行くと、母がシーツにみんなの服をつつんでいるところでした。
「大水になるかもしれんけえ、大事なものはまとめときんさい。」
 君子は急いで弟を起こすと、ランドセルに教科書などをつめ込みはじめました。
 しばらくすると、サイレンが鳴り響き、君子は心臓が止まるかと思うほど、びっくりしました。益田小学校近くの益田川の堀川堤防がくずれたのです。
「はよう、二階へ荷物を運びんさい。はよう!」
 母に言われ、大急ぎでランドセルを持って上がりました。母は父の写真と、君子と弟の通知表を取ってきました。すぐに、足もとがグラッとなり、畳が浮き始めました。君子たちは大急ぎで二階へかけ上がりました。
 
町を襲った濁流
町を襲った濁流
 
 道路は、にごった水で大きな川のようになっていて、その水がだんだん増えています。家の中の階段は、下から一段一段見えなくなっていきます。突然、下からバリバリガッチャーンと音がして、物が倒れるような音と、ガラスの割れる音がしました。君子は足が震えて、涙が出そうになりました。弟が、君子の腕を強くつかんできました。雨は、まだやみません。
 外を見ると、いろいろなものが流されていきます。タンス、流し台、材木、机や畳。ガスボンベが、シューシューと白い煙を出して流れています。ドラム缶が、ドカンドカンと大きな音で、あちこちにぶつかっています。自動車もどんどん流されています。
「階段がなくなっとる。あと一段しか残っとらん。」
 いつの間にか君子の腕をはなしていた弟が、階段を見て叫びました。そのとたん、外から物がこわれる大きな音が聞こえ、目をやると、向かいの家が流されていくのが見えました。
「私の家も、みんな流されてしまうかもしれん。ここにおるの、こわい。はよう雨やんで。こわい。」
 どれくらいの時間、願い続けたでしょう。やがて雨が小降りになり、空が明るくなり、ついに雨がやみました。しばらくすると、家の中の水も引き始めました。君子たちは助かったのです。
 一階へ下りてみました。何もかもひっくり返ってめちゃくちゃになり、泥だらけでした。玄関のドアもありません。父が買ってくれた大事なピアノも、倒れて泥だらけです。
「お姉ちゃん、来てみんさい。」
と、弟が呼ぶので、一緒に外へ出てみました。ここが昨日まで君子たちが住んでいたところだとは、とても信じられません。たったひと晩で、君子の知らない町になってしまいました。
 
泥海になった市街地
泥海になった市街地(中国新聞社提供)S58.7.24
 
 その日の夜、暗い中ろうそくをつけて弟と話していると、
「君子、近所のおばさんがおにぎりを分けてくださったよ。」
と、母が声をかけました。二人は朝から何も食べていなかったので、おにぎりを見ただけで、つばで口の中がいっぱいになりました。お米の甘い香りがします。君子は、このおにぎりの味を、一生忘れることはないと思いました。
 次の日から、いつ終わるかわからない、泥かきと後片づけが、夏の陽射しのなか続きました。母は一日中、家の中の泥を外に出したり、ひっくり返った物の中から、使えそうな物と使えない物を仕分けたりしています。君子と弟は、井戸のある家から水をもらってきて、洗濯をしました。まだ水がにごっていて、洗ったものがみんな茶色くなりました。
 
水が引いた後の通り
水が引いた後の通り
 
濁流のつめ跡
濁流のつめ跡
 
 君子の通っている益田小学校は、木造の前校舎が完全にこわれてしまいました。こわれなかった鉄筋の後校舎には、五百人もの人が避難していました。校庭では、プレハブ校舎の建設が始まっていました。盆すぎからは、大人にまじって、君子たち六年生を中心に、学校の片づけを手伝いました。
 
濁流に襲われた校舎
濁流に襲われた校舎
 
 このような状態だったので、毎年九月にある大運動会は中止が決まっていました。しかし、保護者や地域の方々が、
「子どもたちの元気な顔を見たいので、ぜひ実施してほしい。」
とお願いし、大運動会が実現することになりました。
 運動会の日は、自分の家の復旧作業が終わっていないのにもかかわらず、たくさんの人が集まりました。プレハブ校舎の建つせまい校庭は、今までにない大きな歓声と笑顔につつまれました。私たちの運動会がこんなにも喜んでもらえたかと思うと、君子はうれしくて涙があふれました。そして、みんなの「こころ」が一つになったと強く思いました。
 百年に一度とも言われた豪雨災害。ある人は、「益田の町が元通りになるには、早くても五年はかかる。」と言っていました。しかし、一年ほどで、ほぼ元の町の姿にもどりました。君子は、益田の人たちの復興にかける、ものすごいエネルギーを感じました。
 災害からちょうど一年後、益田小学校本郷園に、「くり返すまい この災害を」と刻まれた防災祈念碑が建てられました。君子は決して忘れないでしょう。復興にむけて益田市民の「こころ」が一つになったことを。人のやさしさと強さを-。
 
道路のヘドロ取りをする人々
道路のヘドロ取りをする人々(山陰中央新報社提供)
 
☆もっと調べてみたいときは、家族や近所の人に聞いてみましょう。いろいろな体験やお話を聞くことができるでしょう。益田市立図書館と益田公民館には、豪雨災害についてまとめた本が多数あり、図書館には当時の『朝日新聞』が保管されています。
 二〇一一(平成二十三)年三月十一日には、東日本大震災が起こり、高さ三十メートルを越える大津波が沿岸の町を襲い、二万人以上の人が犠牲になりました。今の私たちにできることはないか考えてみることが大切です。