修一郎は〈本名 修蔵〉、一九〇三(明治三十六)年九月、益田に生まれました。修蔵と名づけられ、姉が三人、兄が二人の末っ子でした。父は銀行の支店長でした。その末っ子の修蔵が幼いころに、とても悲しいできごとが起こりました。三歳で母が亡くなり、九歳の時、父も亡くなったのです。
その母は、「あの子が気にかかってねえ。」と心配しながら亡くなりました。父は、「修蔵は母親を知らんのだからな。本当にかわいそうだ。」と言い、口ぐせのように可憐児(かわいそうな子)と呼んで、特別にかわいがっていました。
幼くして最愛の父母を失った修蔵は、兄姉たちとも別れ別れになり、今の益田市本町にあった「紫明楼」という旅館の養子として引きとられました。何不自由のない生活でしたが、心の底では、幼いころに味わった悲しいできごとを忘れることができませんでした。
当時の紫明楼の様子
やがて中学校を卒業した修蔵は、作家になる夢をもって、東京の高校、さらに大学へと進学し、多くの文学仲間と出会いました。そして、学生のときに結婚をして子どもが生まれ、夢を大きく広げていきました。
二十五歳のとき、養母が亡くなり、益田に帰って旅館の主人となりましたが、作家になる夢を捨てきれず、翌年、ふたたび作家になる覚悟を決めて上京しました。
しかし上京後の生活は、思ったように仕事がはかどらず、だんだん生活も苦しくなって、一人で声を立てて泣く日もありました。そんなつらい時には、仲間の助けをかりて、東京の三宅島や好きな場所などを旅しながら小説を書きました。そして、その旅先からは折にふれて、子どもたちに手紙を書きました。
〈父さんも、うなりながら仕事をしている。みんな元気でやることを望む。自炊をしているから父さんは、今はゆり子よりごはんをたくのもおかずをこしらえるのも上手になっているにちがいない、エヘン。〉
どんなに苦しくても、家族への細やかな愛情を大切にした修一郎でした。
その彼が、作家「田畑修一郎」として最初に書いた小説は、自らの幼いころの悲しい体験でした。
〈朝に晩に、見知らぬ客が出入りして、軍治は朝学校へ行く前などよく一人で食膳に向かった。夜の食膳が一番遅れ勝ちであった。兄や姉たちとたわむれ笑いながら明るく楽しい灯の下で食卓をかこんだころのことが忘れられなかった。〉(『鳥羽家の子供』より)
【鳥羽家の子供】の本
一九三八(昭和十三)年六月、この自伝小説が、『鳥羽家の子供』として発刊されると、芥川賞という大きな賞の候補に選ばれ、最終選考まで残ったのです。自分の生い立ちに真正面から向きあって書いた小説が高く評価されたのです。結果は次点になりましたが、新しい時代を担う作家として大きく注目されるようになりました。しかし、その後、太平洋戦争が始まり、作家としてもきびしい時代になり、せっかく書いた原稿用紙三百枚ほどの小説を本にすることができなくて、その原稿を焼いてしまったこともありました。それでも、日原町(現在は津和野町)を舞台にした長編小説『医師高間房一氏』、童話『さかだち学校』、『郷愁』など、たくさんの本を出し、二百五十編以上の作品を書きました。そして、作品を書こうとすると、きまって幼いころのことが、ほのかな夢と温かさをもって浮かんでくるのでした。
一九四二(昭和十七)年の秋、出版社からたのまれて、新風土記『出雲・石見』を書くことになり、十三年ぶりにふるさとに帰ってきました。松江、浜田、益田、津和野などを歩きながら、今までになくふるさとの美しい姿に感動をおぼえるのでした。苦い思い出なしには考えることのできなかったふるさとでしたが、心の中では美しく、温かく生き続けていたのです。
〈私は石見西部の益田というところで生まれたので、すぐ隣の町に高津があり、そこに柿本神社があって、私たちはこれを「人丸さん」といい、お祭りごとに五銭か十銭のお小遣いをもらってお詣りに出かけたものだ。その山が鴨山であって、「人丸さん」の死なれたところだと聞き、さらに高津から西の小野村戸田(現在の益田市戸田町)で「人丸さん」が生れたのだということも頭にしみこんで育った〉(『出雲・石見』より)
新風土記「出雲・石見」の原稿
一九四三(昭和十八)年四月、『出雲・石見』を書き上げると、七月、民話を調べるため岩手県へ向かいました。盛岡市内を自転車でまわっている途中、とつぜんの腹痛におそわれて病院に運ばれました。すぐに手術をすることになりました。修一郎は、「家の者には心配させてはいけないから知らせないように。」と、何度もつきそいの人に言って、ひとり手術台に向かいました。しかし手術のかいもなく亡くなりました。四十歳の生涯でした。
〈お父さんが亡くなるなんて。〉
学生であった長女光草子は、親しかった友だちに、手紙を書きました。
〈お父さんは昔から旅がすきでした。体が疲れたり、仕事ができなくなると、すぐ旅に出て行きました。そして新しい活力を養って帰ってくるのでした。そのお父さんが旅で死んだの。お父さんはほんとうに好いお父さんでした。時々おこったりしてしゃくにさわったこともあったけれど、お父さんの心の中の芯はしっかりとしていました。その芯はどんなに美しかったことでしょう。〉
光草子の眼には、作家としての強い信念をもった父の後ろ姿が焼きつけられていたのでした。
主な著書
多くの作家仲間は、「いい作家だったなあ。」と、突然の別れを惜しみました。
家族を愛し、ふるさとを愛し、文学を愛し続けた四十歳の生涯でしたが、幼い頃の悲しい体験をバネにして描いたふるさとへの思いは、今も作品のなかで生き続けています。
☆もっと調べてみたいときには、益田市立図書館や益田市歴史民俗資料館に聞いてみましょう。資料には、『田畑修一郎全集』(全三巻)などがあります。