義に生きた侍 岸静江国治

44 ~ 49 / 229ページ
 
 八百人を超える敵が、最新式の銃を持って攻めてきます。あなたは、リーダーとして自分に任された関所を守らなくてはいけません。しかも、味方はたった二十三人。その時、あなただったらどうするでしょう。そんな状況にあっても、命をかけてその責任を果たそうとした男がいました。その男の名は岸静江国治。浜田藩の侍でした。
 時は江戸時代が終わろうとする幕末。一八六五(慶応元)年、岸は上司に呼ばれました。
「岸、お前に扇原関門に行ってもらいたい。」
 扇原関門は、多田村(今の益田市多田町)にあり、津和野藩と浜田藩の境におかれた関所です。岸は命令の意味がすぐに理解できました。徳川幕府の行う政治に対して不満を持つ長州藩は、武士だけでなく、町民や農民も集めて「奇兵隊」という軍隊を作り、力をつけていました。このまま、幕府と長州藩との間で戦になれば、ここ益田で戦が始まるのはさけられませんでした。
「最前線に立つのは我が浜田藩となろう。扇原の関門はその場所から考えて、おそらく最初の戦場となる。これは厳しい戦となるな。」
 岸はそう思いました。
「して、私につけてくださる部下の数は?」
 上司は申し訳なさそうに岸の顔を見つめて答えました。
「六名である。」
 岸の顔が曇りました。上司は岸の心配を打ち消すように言いました。
「しかし、戦ということになれば、全国の多くの藩から援軍が来る。よって、しばしの間、時をかせいでもらえばいいのだ。やってはくれまいか。」
 岸はその困難な任務を引き受けました。
 
戦略図
   戦略図(田中頼昭氏提供)
 
 その年の七月、ついに幕府は長州征伐の命令を全国の藩に発しました。扇原関門のある石州口には、福山藩(今の広島県福山市)が勝達寺(今はこの寺はありません)と医光寺に、浜田藩が萬福寺に布陣しました。木がおいしげった丘に囲まれた三つの寺は、前を益田川が流れ、守りやすいと考えた戦略でした。しかし、その装備は火縄銃に槍や刀、重い甲冑と、古いものでした。
 一方長州軍は、大村益次郎を隊長代理とし、十六日の早朝、陸路津和野を通り、横田から入って来る主力隊と、船で持石浦や小浜に上陸する隊に分かれてやってきました。総勢千五百人。最新式のミニエール銃やゲーベル銃を持ち、みな軽装で西洋式の軍事訓練を受けた者たちでした。
 長州軍は横田村(今の益田市横田町)の小木の河原を渡り、梅月に進んでいます。その知らせを受けた岸は、この情報を福山藩、浜田藩に知らせると同時に、福山藩に援軍を送るよう願い出ました。しかし、福山藩は他藩のために、藩士の命をかけてまで関門を守る理由はないとことわりました。援軍が来ないことを知った岸は、多田村の庄屋を訪ねました。
「庄屋殿、頼みがある。我が藩を守るため、ひいては民の生活を守るため、多田村で火縄銃を持っている猟師を集めてもらえまいか。」
「どうしてでございます。」
「わしらと一緒に、長州軍の攻撃から関所を守ってもらいたいのだが。」
「わかりました、岸様。できるかぎりのことはやってみましょう。」
 庄屋の呼びかけにこたえて、集まった猟師や農民は総勢十六名でした。岸の前でひれ伏している彼らの手をにぎりながら、岸は言いました。
「みんなの気持ち、ありがたく思う。厳しい戦いになると思うが、がんばってほしい。」
「わかりました。」
「みなの者、この十六名の勇者たちに杯をとらせよ。」
 岸は一同に酒をつぎ、元気づけました。
 そのころ、長州軍は、梅月付近を進んでいました。そこで二手に分かれ、一隊は小俣賀から扇原関門に向かい、もう一隊は北の山道を通って本俣賀から多田に向かって進みました。正午過ぎ、長州軍の使者が関所の前に現れました。
「願いの筋あって、萩から京都に参る者でござる。なにとぞ、関門をお開き願いたい。」
 いよいよ来るべき者が来たと思った岸は、門を開き使者を中に入れました。そして、ていねいに頭を下げ、
「私は主君の命令により、この関門を任されている岸静江国治といいます。主君の許可もないのに、私の一存で勝手にあなた方をお通しするわけには参りません。」
と、断りました。何度も願いを訴える使者に対し、岸は頑としてゆずりません。
「これほどまでに拒否なされるなら、いたし方ない。力でおし通るほか道はござるまい。」
 そう言うと、長州軍の使者は立ち去りました。
 
扇原関門跡
扇原関門跡(この山道を長州軍が登ってきました。)
 
 長州軍の攻撃が始まりました。石州口の戦いの始まりです。岸たちも撃ち返しましたが、相手は八百人を超える大軍、あまりにも力の差があります。この時、岸は父母の顔を思いうかべました。父母は幼かった静江に、〈義のため、主君の命令のために、命をかけてこそ侍である〉そう言い聞かせていました。岸は思いました。
「父上、母上、私にとって〈唯今がその時、その時が唯今〉と思います。命をかけ、私の義をつらぬきます。しかし、この思いは私だけのもの、私に従う者の命は犠牲にしたくありません。父上、母上、それでいいですね。」
 そう自分に言い聞かせた岸の目に迷いはありませんでした。岸は猟師たちに言いました。
「みなの者、よく戦ってくれた。もう逃げてくれ。改めて礼を申す。かたじけない。」
 猟師の中には、最期まで戦わせてほしいという者もいましたが、岸はその願いを聞き入れませんでした。
 猟師たちが逃げのびた後、岸と六名の部下たちは決死の覚悟で防戦に努めました。このため、長州兵もなかなか関門に近づけません。しばらくすると、長州軍の攻撃は関門の正面だけでなく、左右の山からも始まりました。銃声は山や谷にこだまして、関門はみるみるうちに修羅場となりました。もはやこれまでと感じた岸は、部下に撤退を命じました。
「もうこれまでだ。よくやった。引け。」
「岸様もいっしょに参りましょう。」
「わしはここで死ぬ。もう決めたのだ。引け。」
 一人残った岸は一兵の敵も通さないと、長槍を杖にして敵をにらみつけていました。その時、関門の中に潜り込んできた敵兵の弾が、岸の胸を貫きました。岸はくずれるようにそばにあった床几(※戦場で使った折りたたみ式の腰かけ)に座りこみましたが、長槍を杖にしたまま態度をくずさず、敵をにらんだままでした。怖れおののきながら近づいた長州兵は、静江の息がすでに切れているのを見て、どんなに驚いたことでしょう。このようすをみた長州軍は、敵味方を忘れて誰もが涙を流しました。岸静江国治、三十一歳の若さでした。
 
床机に座る岸静江(イラスト)
 その後、扇原関門を通過して益田に侵入した長州軍は、翌十七日、三つの寺に布陣していた浜田藩兵、福山藩兵を討払い、浜田城へと進撃しました。この石州口の戦いの後、時代は江戸から明治へと移っていくのです。
 
☆もっと調べてみたいときには、益田市立歴史民族資料館の人に聞いてみましょう。石州口の戦いの詳しい資料や岸静江の脇差が残っています。