囲碁を世界に 岩本薫(本因坊薫和)

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「おじいちゃん、うれしそうじゃねぇ。また、碁をうちに良夫君のおじいちゃんの家に行くの。おじいちゃん、碁ってそんなにおもしろいの。碁って白い石と黒い石を並べてどっちの石の方が多くの陣地を取るか競うゲームなんでしょ。」
「光一、碁は面白いぞ。碁はおまえがいう通り陣地を取り合う単純なゲームなんだが、一手でもいいかげんな石をうつとそれまでの形勢が一挙に逆転するというスリル満点の頭脳ゲームなんだ。そのおもしろさは碁の世界大会があるくらいなんだぞ。」
「世界大会があるの。碁って日本や韓国や中国の人だけがやっているゲームじゃないんだ。」
「アメリカ、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、イギリス、ドイツ、ウクライナ、フランス、ロシア、オランダなど多くの国々で碁を楽しんでいる人がたくさんいるんだよ。」
「そうなんだ。」
「光一、いいことを教えてやろうか。こんなふうに碁というゲームが世界中で行われることになったのは、岩本薫という人が大きな役割を果たしたんだが、その人は、なんとおまえと同じ益田市で生まれた人だ。」
「そうなんだ。おじいちゃん、その人はどんな人だったの?」
 
岩本薫
岩本薫(平成7年在籍70周年表彰時)
 
生家前石碑
生家前石碑
 
大正2年、釜山にて
大正2年、釜山にて
 
「岩本薫さんは、一九〇二(明治三十五)年二月五日、美濃郡高津村(今の高津町)で生まれたんだ。四歳のころ、お父さんとともに朝鮮に渡り、十歳のころ、お父さんから碁を習ったそうだよ。」
「僕とあまり変わらない年だね。それで薫少年は碁が強かったの。」
「子どもの頃から強かったんだろうな。プロの先生と対戦し、その先生から勉強してプロになることを勧められたのが十一歳のころだから、碁の才能はかなりあったんだろう。十六歳で初段になっているよ。」
 
碁石が並んだ碁盤(イメージ写真)
「それで岩本さんは、碁のチャンピオンになったの。」
「碁のチャンピオンか、光一はおもしろい表現をするな。今でこそ碁のチャンピオンは棋聖、名人、本因坊、十段、天元、王座、碁聖と七つの主なタイトルがあるんだが、岩本さんの時代には本因坊というタイトルしかなかった。それも二年に一回しかタイトル戦は行われなかったんだ。岩本さんは、その本因坊のタイトルに二度ついているんだよ。」
「すごいことだね。岩本さんは碁が強かったんだね。」
「そうだな。岩本さんと本因坊戦のことを語る時、原爆下の対局のことを光一に話そうか。岩本さんのそこでの体験が、その後の彼の活動の原動力になったとわしは思うからな…。」
「原爆下の対局って、そんなことをしたら死んじゃうじゃない。おじいちゃん、詳しく話して…。」
「一九四五(昭和二十)年、岩本さん四十三歳の時、初めて本因坊のタイトルに挑戦したんだ。昭和二十年といえば、太平洋戦争の終戦の年で、タイトル戦は広島市内で行われることになったんだ。それも対局場は本川橋に面した家だったそうで、その家の場所は爆心地のすぐそばだったんだよ。七月の終わりに第一回目の対局があり、二局目は八月四、五、六日に行われる予定だったんだよ。」
「おじいちゃん、昭和二十年の八月六日といえば、広島に原子爆弾が落ちた日でしょ。しかも、爆心地の近くなら岩本さん達、助からないよ。」
「そうだな。予定どおりだったら亡くなっていただろうな。ところが、第一局目の時に岩本さん達にとっては幸運なことがあったんだよ。それは、碁の対局をしている時、敵の飛行機が飛んできて、機関銃を対局場の近くに撃ったんだ。岩本さん達に怪我はなかったんだが、こんな危ない場所では対局は無理だということになって、急に市内から約十キロ離れた五日市に対局場が変わったんだよ。」
「そうなのか。でも、十キロ離れていても、かなりの影響はあったんじゃないの。」
「原子爆弾の爆風で碁石は飛び散り、障子や襖は倒れ、窓ガラスは粉々になり、堅いドアがねじ切れたそうだよ。岩本さんは碁盤にうつぶし、対戦相手の橋本さんは庭に飛び出して芝生の上に突っ立っていたそうだ。」
「それでどうなったの。」
「対局は部屋を片付けた後、そのまま行われたんだよ。そして、次の日、広島市内に戻ってみると、町は焼け野原となっており、広島での対局を楽しみにしていた多くの知人が亡くなっていた。その時の思いを岩本さんは回顧録にこう書いているよ。
 〈これ以降、私の人生観は変わったと思う。いっぺん死んだのだ。どうせ死んだものなら、これからひとつ碁界のために尽くそうではないか。そんな気持ちを抱くようになった。〉
彼の人生観を変える出来事だったんだよ。」
「すごい体験をしたんだね。それから、おじいちゃん、岩本さんはどうしたの。」
「結局この本因坊戦は、一時中断したけどそのまま続けられ、翌年、岩本さんは本因坊のタイトルを勝ち取るんだ。しかし、昭和二十年に日本は戦争に負けるだろう。だから、多くの人が明日の生活に苦しむ、そんな国になってしまったんだ。そんな中で、岩本さんは、自分の碁の力を高める努力をしながら、その一方で日本棋院(※日本の囲碁の発展を目的としてつくられた組織)の復興に全力をあげたんだよ。まずは、本部を建て直し、しっかりした運営ができるように、多くの人に募金をお願いして回ったんだ。そしてね、約十年かけて、本部の活動がどうやらうまく行き始めたころ、友人と二人で初めてのアメリカ旅行をしたんだよ。その時、碁の好きな一人のアメリカ人の言葉に岩本さんは、すごく燃えたそうだよ。」
 
「そのアメリカ人、岩本さんに何て言ったの。」
「回顧録によるとね、こう言われたそうだよ。
 〈日本人は戦争に負けたといえ、独自の優れた文化を持っている。決して肩身の狭い思いをすることはない。ことに碁という、こんな優れた文化を持っているではないか。これをなぜ積極的に、アメリカやヨーロッパ、いや、世界中に広めようとしないのか。〉
その言葉を聞いた岩本さんは、その仕事は俺がやってやると決心したそうだ。」
「おじいちゃん、岩本さんは、その後、どうしたの。」
「自分が持っていた囲碁のサロンビルを売り、岩本囲碁振興基金を作り、そのお金を元手にしてサンパウロ囲碁会館、アムステルダム囲碁文化センター、シアトル囲碁会館等を建設し、碁の指導者を派遣するなどして、囲碁の普及を一歩一歩進めていったんだ。」
「おじいちゃん、岩本さんってかっこいいね。」
 
平成5年ロンドン囲碁センターにて
平成5年ロンドン囲碁センターにて
 
「岩本さんは、一九九九(平成十一)年、九十七歳で亡くなったんだが、二〇〇二(平成十四)年生誕百年を記念して、益田市の名誉市民の称号を贈られているんだよ。さて、そろそろ時間だな。」
「良夫君のおじいちゃんと対戦するんだね。」
「そうだ。光一、留守番よろしく。今日は絶対勝つぞ。」
「がんばってね。おじいちゃん。」
 
☆もっと調べてみたい人は、益田市立歴史民俗資料館の人に聞いてみましょう。