愛に満たされた歌聖 柿本人麿

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柿本人麿(肖像画)
   ※「人麻呂」と書くこともあるが、ここでは「人麿」と表記する。
 
「わあ、見て見て、お母さま、青い“水”がたくさん。」
「ほほほ、あれは海というものですよ、人麿。」
「では、あの海にある大きな大きな緑の“石”は何ですか。」
「島といいます。青い海に浮かぶ緑の島のなんと美しいことでしょう。あなたのお父さまも、ここからのながめをとても愛しておられましたよ。」
 
青い海の向こうに見える島(イメージ写真)
 ここは石見の戸田郷(今の益田市戸田町)の海辺で、母と人麿は遠くはなれて都にいる父を慕いながらさびしく暮らしています。
「お父さま…。お父さまに会いたい。どうすればお父さまに会えるのだろう。」
人麿が心の中でつぶやくと、
「毎日たくさんの人のお話をきちんと聞いて、素直に学ぼうとする心を忘れなければ、お父さまのように都で必要とされる人になれる日が来るかもしれませんね、人麿。」
 母は人麿の小さな両肩にそっと手を置きました。先ほどまで父に会えないさびしさを感じていた人麿の心に、母の優しさと温もりが伝わってきました。何も話さなくても自分の気持ちを察して受け止めてくれる母は、松林から差し込むこもれ日のような温かい心をもっていました。山ほどの問いかけをしてもいやな顔ひとつせず、大切に言葉を選びながら知る限りのことを人麿に答えてくれる母。
「お母さまは、なぜこんなにもいろいろなことを知っているのだろう…。」
 人麿は、自分の母が語家(※神話などを話して聞かせ伝えていく職業のこと)という代々語部をつとめる綾部家に生まれた人であるとはまだ知りませんでした。しかし、母のおだやかさの中にも凛とした言葉は、情感豊かな歌のように人麿の心に深くしみいり、広い世界への扉を開けていきます。
 
「よし、たくさんのことを学んでいつか都へ行こう。そして、お父さまのように人々から必要とされる人になろう。」
 自然にめぐまれ、海で魚とたわむれては野山をかけめぐる中で、人麿は母から大きな愛と豊かな知恵を受けつぎ、いろいろなことを学びました。
 大きくなるにつれて、人麿の都への思いはいっそう強くなっていきました。人麿の家には母のほかにも和歌などを教えに来てくれる者もいましたが、人麿のすぐれた才能にみんなが驚きました。
「なんという利発な子じゃ。一度教えると、すべて覚えるとは。」
「なんとまぁ、少年にこのような歌が詠めるとは…すばらしい。」
 戸田や小野郷の人々が人麿の歌のすばらしさをほめたたえました。しかし、幼い人麿には何がすばらしいのかよくわかりません。
「どうして私の歌がほめられるのだろう。感じたままを歌に詠むだけなのに…。」
 たとえ小さくとも常に前向きに人びとの言うことに耳をかたむけ、自分の気持ちに正直に生きようとする人麿の和歌は、人々の心をとらえてはなさなかったのです。
 こうして人麿は歴史についてくわしく、さらに人々の心にひびく歌が詠める立派な青年へと成長しました。そして幼かったあの日の父への思いが現実になる日が近づくと、人麿は母にそっと伝えました。
「お母さま、今こそ都の飛鳥(今の奈良県)へ行き、自分の思いを伝えてみたいと思います。この語家で学んだことをいかせるような仕事を都で見つけてまいります。」
 すると母はまるでその日が来ることを知っていたかのように、優しくほほえんでうなずきました。
「お母さま、ありがとうございます。行ってまいります。」
 人麿は何度も何度も母をふり返りながら、一人都へと旅立ったのです。
 念願の都で働きはじめると、またたく間に人麿のすばらしい和歌の才能が認められ、そのうわさは天武天皇にまでおよびました。
「人麿という優れた和歌を詠む若者がおるらしい。会うてみたいものよのお。」
 こうして人麿は天武天皇のそばで歌を詠む歌人となり、その後は、持統天皇、文武天皇と三代にわたる宮廷歌人となりました。
 
早朝の朝日(「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」のイメージ写真)
  東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
  (早朝、東の空にまさに陽がのぼろうとするその直前、ふり返って西の空をながめると月が今まさに沈もうとしている)
 
人麿の歌は凛とした中に心のあたたかさが感じられ、しかも豊かな感性にあふれており、天皇や皇子たちの心を魅了していったのです。とくに持統天皇からは、宮廷歌人としてこの上ない寵愛を受けたようです。
 一方で、都を拠点にして筑後地方(今の福岡県南部)や石見地方などの各地をめぐる人生を送りました。歩く旅の途中で美しい景色をながめては、心に感じたものを素直に歌にして書き残しました。こうして詠まれた歌は、のちの歌集『万葉集』には、第一人者として四百首あまりも選ばれています。
 七〇〇年ごろ人麿は石見に帰り、石見国府で依羅娘子と結婚しました。その後、日本海に浮かぶ鴨島で、最愛の妻に辞世の歌を遺しました。
 
  鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
  (鴨山の岩根を枕にして死のうとしているわたくしを、それとは知らずに妻はわたくしの帰りを待っていることであろうか)
 
突然の主人の死を聞いた依羅娘子は、次の歌を詠みます。
 
  今日今日とわが待つ君は石川の貝にまじりてありといはずやも
  (今日帰られるか今日帰られるかと私が待っていたあなたは石川の貝にまじっているというではありませんか。)
 
この二つの歌からは、おたがいを想い合う二人の気持ちが感じ取れます。
 人麿は、最後まで愛する人へのはなれがたい気持ちなど自分の内面を詠み続けました。歌の中に自分の感情を素直に表現し続けることができたのは、幼いころから母をはじめ愛情豊かな多くの女性に温かく見守られ、時の天皇からも深く愛されたからかもしれません。こうして、多くの人に愛された人麿は和歌の神様「歌聖」と呼ばれ、その歌は今でも私たちの心に静かに語りかけています。
 
水辺の風景(イメージ写真)
☆柿本人麿は愛されるがあまり、人生の始まりから終わりまでさまざまな説のある「謎の人」でもあります。もっと調べてみたいときには、高津地区振興センターに行ってみましょう。『柿本人麻呂』(矢富厳夫著)などの本を読むことができます。
 また、益田市立図書館には人麿について書かれた本がたくさんあります。言葉や表現の難しいものもありますが、お家の人と一緒に「我が家だけの人麿さん探し」をしてみるのもおもしろいと思います。
 
高角山柿本神社
高角山柿本神社(高津町)
 
柿本神社拝殿そばの銅像
柿本神社拝殿そばの銅像(高津町)