嘉左衛門は険しい顔で高津沖田(現在の益田翔陽高校のそばに広がる地区)の田を眺めていました。今から三百年前、江戸時代中ごろのことです。そこでは多くの村人が、わずかに流れている用水路の水を「つきみ」を使って田に流し込もうとしていました。しかし、その量はあまりにわずかであり、田全体を潤すことはとてもできません。それでも村人は祈るような表情で「つきみ」を動かし続けていました。
つきみ
「今年も米はそう多くは期待できないな。」
庄屋として高津につとめたばかりの嘉左衛門は、そうつぶやきました。
沖田の田は、そばを流れている高津川より高いところにあり、直接、高津川から水を引くことができません。そこで、四キロメートルも離れた市原村(今の益田市市原町)から水を引いていました。しかし、その水路がたびたびこわれたり、用水路に流れる水量が少なかったりしたので、そのたびに田んぼはかわききってしまいました。米が収穫できないと、村人たちは津和野藩に年貢を納めることができないうえ、自分たちが食べるお米さえもなくなりました。お米がない時は、ひえやあわ、麦などわずかばかりの穀物を食べていましたが、それでも一日に一回しか食べられないこともありました。懸命に働く村人たちの姿を見つめながら、嘉左衛門はいつも同じことを考えていました。
「やはり、蟠竜湖から穴を掘って水を引くしかない。」
蟠竜湖は沖田地区の西に位置し、しかも沖田地区より高いところにある、いつも満々と水をたたえている湖でした。もし、ここの水が利用できれば沖田の水不足は一気に解決できるはずです。
「蟠竜湖と沖田の間は、およそ二百メートルから二百五十メートル。あの龍ノ山の岩の硬さを考えれば、その穴が完成するにはおよそ十年はかかるだろう。しかし、それでも村人のためにはやるしかない。一刻も早く、工事を始めなければ…。」
すぐさま嘉左衛門は、代官に工事を始めることを申し出ました。
「この高津村のために、私たちの子どもや孫のために、蟠竜湖の水を通す工事をしようと思います。」
「そうか。やっと決心してくれたか。困難な仕事となろうが、きっとなしとげてくれ。」
しかし、その時の嘉左衛門には、何ら策があるわけではありませんでした。
「藩からの援助があったとしても、十年もの長い間工事を続けることはできない。せめて、五年以内に穴を通せないものか…。」
重い足取りで家路につくと、庭で子どもたちが遊んでいました。土と砂で大きな山を作り、山の左右から両手を使って穴を掘っています。何気なく見ていた嘉左衛門は、はっと気がつきました。
「そうだ。両側から掘ればいいのだ。両側から掘り進めればきっと五年以内に完成できるぞ。」
しかし、すぐに嘉左衛門の心は曇りました。
「穴の方向はそろえることができるが、穴の高低はどうすればいいのか。それに、左右から掘った穴が途中で出合うという保証はどこにもない。それでも掘るべきか…。」
当時の技術では、トンネルの深さをそろえて両側から掘っていくことはとても難しいことでした。嘉左衛門は目を閉じて自分自身に問いかけました。
「失敗したら、私は何らかの責任を取らされるだろう。しかし、成功したら、今後、沖田は豊かになる。村人や目の前にいる子ども達のために、お前はどちらを選ぶのか。」
目を開けた時の嘉左衛門の顔には、もはや迷いはありませんでした。
決心した嘉左衛門はさっそく行動を開始しました。一七〇四(宝永元)年、人夫や道具を整えて工事を始めました。トンネルの出入口にロウソクを点し、その光を見通しながら掘り進めました。ダイナマイトも、掘った土や石を外に運び出す機械もない時代です。岩に穴をあける道具と言えば、のみ、つるはししかありません。掘られた土や石を運び出すのは全て人力でした。硬い岩があり、二日間たたいても、三日間たたいても一メートルさえ進めないこともありました。なかでも、「留山」というところでは岩の壁が崩れてしまい、逆によそから大きな岩を運んできてたたき込まなければなりませんでした。まさに、難工事の連続でした。しかし、嘉左衛門は決してあきらめませんでした。
「ここであきらめてしまったら、高津村はどうなるのだ。やめるわけにはいかない。」
工事を始めて四度目の冬が来ました。すでに、藩から援助してもらったお金は底をついていました。しかし、工事を続けるために、自分の財産の全てを投げ出す覚悟をしていました。そして、寝食を忘れて工事に打ち込みました。工事を完成させることが、人々の幸せにつながると固く信じていたからです。
しかし、最後の関門が待っていました。沖田側から掘った穴と蟠竜湖側から掘った穴をつなげることです。
「計算では、もうつながってもよいはずだ。それなのに、どうして…。」
このまま二つの穴が出合わなければ、今までの苦労はすべて水の泡となります。嘉左衛門は人夫を集めて言いました。
「これからは、穴を掘ったり、土を運んだりしながら、大声を出してもらいたい。そして、相手側の声が聞こえたら、すぐに知らせるのだ。」
しかし、何日たっても嘉左衛門のもとにうれしい知らせは伝わってきません。
嘉左衛門自身もそして多くの人夫達も、そろそろあきらめかけていたある日、沖田側から掘っていた人夫の一人が、穴の上の方で人の声が聞こえたような気がすると知らせてきました。その報告を受けた嘉左衛門は、声のする方向に掘らせることにしました。すると、のみをたたく音や人の話し声が聞こえてくるではありませんか。人夫たちは声をふりしぼって、力の限り叫びました。
「おーい、聞こえるかあ。聞こえるかあ。」
「おーい、聞こえるぞう。聞こえるぞう。」
喜びあふれる声がトンネルの中に響きわたりました。
一七〇七(宝永四)年十二月十日、蟠竜湖疎水は完成しました。長さ約二百メートル、高さ一・八メートルから三・六メートル、幅四十五センチから六十センチのトンネル(間歩)です。その後三百年の間、沖田の田は水に困ることもなく、毎年豊かな実りを続けるようになりました。
嘉左衛門は一七一〇(宝永七)年六月十日、人々に惜しまれながら亡くなりました。しかし、嘉左衛門の村人を思う気持ちと決してあきらめない強い意志は、今でも人々の心に残っています。一九〇九(明治四十二)年七月には、高津の大元神社に「唯心居士頌徳碑」と書かれた記念碑が建てられました。そして、二〇〇二(平成十四)年には、嘉左衛門に感謝し、その功績を語り継ごうと、地元の水利組合の人たちの手によって記念碑が疎水近くに移されました。蟠竜湖がある限り、これからも、嘉左衛門が作った疎水は、高津の田を潤し続けていくことでしょう。
記念碑
☆もっと調べてみたいと思った時には、「高津町誌(一)」を読んだり、高津公民館の人に聞いたりしてみましょう。