「村を救う何かいい方法はないかのう。」
治兵衛は毎日頭を悩ませていました。
今から二百三十年前、江戸時代の中ごろ、治兵衛が四十歳のころのことです。そのころ、全国各地の農村は、大雨や日でりなどの悪天候のため農作物が取れずに、人々は苦しんでいました。治兵衛が生まれた遠田村(今の益田市遠田町)も多くの人が食べ物に困って食うや食わずの生活をしていました。
「今年も米が取れんかったのう。」
「野菜も出来が悪かったのう。」
「食うのもやっとじゃ。売る物がないけえ、何も買えん。」
治兵衛は何か売れるものが作れないか毎日考えていました。そんな時、ふと自分の祖先の地を思い出しました。
治兵衛の祖先は、豊後の国(今の大分県)の国東でした。そこでは、いぐさ(藺草)の栽培が盛んで、「たたみ表」を生産していました。
「たたみ表」というのは、たたみの表につけるござのことです。このござは、いぐさの茎を織って作ります。このたたみ表を作ることを思いついたのです。これなら男だけでなく、家の者だれでもできそうな仕事ではないかと思ったのです。
いぐさ
治兵衛はさっそく遠く国東の地に向かい、そこで、いぐさの苗を分けてもらいました。国東から帰るとすぐに、自分の家の近くの湿った土地に植えてみました。
「うまく苗がついてくれるといいがのう。」
治兵衛の心配をよそに、苗は枯れずに、田んぼの土に見事につきました。青々と長く実ったいぐさを見て、治兵衛は涙が出んばかりでした。
「遠く国東まで行って、苗を持って帰ったかいがあった。」
横で妻もいっしょに喜びをかみしめていました。遠田の土地がいぐさに適しているかどうか、治兵衛はとても心配だったのです。何しろ、遠田村はいうまでもなく、石見の地(島根県の西部)でいぐさが栽培されたのは初めてのことだったのです。
遠田の土地で、いぐさが栽培でき、たたみ表もできることがわかった治兵衛は村の人に、いぐさの栽培をすすめました。しかし、 いぐさの栽培はたいへん苦しい作業です。いぐさは十二月のこがらしが吹きすさぶころに植えつけ、真夏の炎天下のもとで刈り取ったあと、干さなければなりません。それでも、村の人は気持ちを一つにして賛成してくれました。その結果、遠田の土地はいぐさの生産が盛んになり、たたみ表は「遠田表」とよばれるようになりました。
いぐさ刈り(神出・昭和35年頃)島田彰氏提供
そんな時、治兵衛は備後の国(今の広島県)でもたたみ表をたくさん作っていることを知りました。このたたみ表は「備後表」といい、とても評判が良かったのです。治兵衛はどうしてもこの備後表が見たくて、いてもたってもいられなくなり、さっそくに備後の国に旅立ちました。
治兵衛は備後の国に着くと、すぐさま備後表を見せてもらいました。
「こ、これはすばらしい!なるほど遠田表との違いはこれだったのか。」
治兵衛はこの備後表のいいところをすぐ発見しました。そうです。いぐさそのものが違っていたのです。備後の国では「小ひげ藺」といういぐさで、たたみ表を作っていたのです。
治兵衛はこの小ひげ藺を持って帰り、栽培しようと思いました。そこで、農家を訪ねて、苗を分けてもらうよう頼みましたが、どの家にも断られてしまいました。
「どうか、ほんの少しでいいのです。分けてもらえないでしょうか。」
「村のくらしがよくなるのです。お願いします。」
「気持ちは分かるが、小ひげ藺は備後の国の特産物なんじゃ。国のおきてで、よそには絶対に出してはいけないんじゃ。」
「出したとわかったら、重い罰を受けるんじゃ。」
しかし、治兵衛は何度断られても、あきらめずに村から村を歩きました。へとへとになりながら、とある一軒家にたどり着きました。その家で最後のお願いとばかりに熱心に話をしました。すると、その農家の人は、
「よくわかりました。いぐさを三株だけ分けてあげましょう。」
「そうですか!それはそれはありがとうございます。」
「しかし、国のおきてがあります。だれにもわからないように国の外に持ち出してください。」
「はい、わかりました。」
治兵衛はそう言うと、用意した竹のつえの節をぬきました。
「この中にいぐさの苗を入れます。苗が枯れないように水を入れて、持って帰ります。こうすればだれにも気づかれません。」
「あなたの強い気持ちがよくわかりました。無事に帰られますことをお祈りします。」
こうして、治兵衛は途中何度か、ひやひやすることもありましたが、無事に遠田の地に帰ってくることができました。さっそく治兵衛は持って帰った小ひげ藺を植えてみました。そうすると今まで植えていたものより、とても育てやすいことがわかりました。
こののち治兵衛は、小ひげ藺を作り、広めていきました。いぐさ作りは遠田村、隣の津田村の田んぼ全体にも広まり、このあたり一帯はまさに緑の里になりました。そして、農家からは、トトトンタンタンとたたみ表を織る機(ござ機)の音が力強く聞こえてくるようになりました。
ござ機
遠田表とよばれていたたたみ表は、浜田の方まで広がり、さらに盛んになりました。そして「石州表」と呼ばれるようになりました。石州表は生産量も多く、この石見の国の特産物となり、大事にされました。
天明の大ききん(※江戸時代中期の一七八二年から一七八八年にかけて発生したききん。江戸四大ききんの一つ)から苦しい生活をしていたこの地の人々は、治兵衛のたゆまない努力のおかげで生活が豊かになっていきました。治兵衛は、このほか「石州半紙」を広めることにも力を入れました。
治兵衛の功績をたたえ、遠田の丸山に碑が、国東には国東家の墓が建てられています。「緑の里や機の音」で始まる安田小学校校歌三番は、「正しく強く美しく、明日の世界にはばたこう」と結んでいます。国東治兵衛翁がわたしたちに向かって歌っているように思います。
伝国東治兵衛の墓
☆もっと調べてみたいと思ったときには、「益田市誌(上巻)」「安田村発展史(上巻)」「こどものための人物島根の歴史(黒潮社)」などを読んだり、安田公民館の人に聞いたりしてみましょう。