わが墓を朝鮮が見える地に-多賀是兵衛の願い

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 益田市飯浦は、島根県の最西端に位置する海岸の村です。弓なりに曲がった海岸へ出ると、右手に鎌手沖にうかぶ高島が見えます。その高島と向かい合うように海へ突き出ている断崖が人形の鼻という峠です。昔は、峠道が狭くて急であったために、通行人がよく海に滑り落ちたそうです。
 
飯野浦港
飯浦港
 
多賀是兵衛の墓
多賀是兵衛の墓
 
 人形の鼻から百メートルほど登って行くと、飯浦港の全景が見渡せます。多賀是兵衛の墓は、その大パノラマを見下ろす絶好の場所にありますが、やぶ草のしげみに囲まれてひそやかに建っています。
 多賀是兵衛は、織田信長が織田家の跡つぎになったころ、因州(今の鳥取県)の漁村に生まれました。是兵衛は、若いころから魚を求めて美保関や隠岐、浜田の方まで出かけていました。ある年、魚を求めて遠く九州方面まで足を伸ばした時、そこで是兵衛は自分の人生を決定づける話を聞きました。それは、中国や台湾、朝鮮やルソン(今のフィリピン)など、今まで聞いたこともない遠い外国の話や荒海をのりこえて進む船乗りたちの勇ましい冒険話でした。
「俺もいつか大船に乗って外国に行ってやる。」
 是兵衛はそう決心し、漁の合間をぬって独学で大船の操船術(※船をあやつる技術のこと)を学んでいきました。
 室町時代末期の外国との交易は幕府の力がおとろえたために、室町幕府の許可を得ないで勝手に貿易をする者がいました。また、貿易がうまく成立しないと、外国の船や港を襲う事件が目立つようになりました。そのため、一番の貿易相手国であった明(今の中国)や朝鮮は、日本との貿易を嫌がるようになっていたのです。
 そこで、長い戦国の世を統一した豊臣秀吉は、乱暴な船を取りしまる一方、外国へ渡航する船には朱印状(※戦国時代から江戸時代の初めにかけて将軍や大名が朱肉の印をおして使用した公文書)という証明書を持たせて、密貿易船ではないことをはっきりさせました。そのため、朱印状を持った船のことを朱印船といい、朱印船による貿易のことを朱印船貿易といいました。この仕組みは、秀吉亡き後、天下を統一した徳川家康にも引きつがれました。
 
復元朱印船
復元朱印船
 
 江戸時代、後に津和野藩の殿様となる亀井茲矩が因州の殿様になりました。茲矩は石高の少ない小さな大名でした。茲矩は、領民がこれからもっと豊かな生活をするための方法を考え始めました。
「米だけに頼っていてはいけない。外国との貿易で富を得ることが必要だ。そのためには…。そうだ。」
 茲矩はすぐさま家来を呼びました。
「わが領民の中から、これからいう条件に合う男を探してまいれ。」
「して、その条件とは?」
 家来は尋ねました。
「一つ、大船の操船ができること。二つ、大勢の船乗りたちをまとめることができる力を持っていること。三つ、何より重要なのはどのような困難なことに出会っても決してあきらめない強い意志を持っていること。この三つの条件を兼ね備えている男を探してくるのだ。」
「わかりました。すぐ探します。」
 家来たちは村々を回り、条件に合った是兵衛をついに探し出しました。そして、是兵衛は茲矩と合うことになったのです。
「この男が是兵衛か。見るからにたくましい男じゃ。」
 是兵衛を一目見た茲矩は、彼の情熱と船乗りとしての強い意志を感じ取り、すぐさま是兵衛を南方貿易の船長に取り立てました。
「是兵衛、もし無事にこのたびの役目を果たして帰ったら、そちにはほうびとして銀六貫匁(※今の三千万以上の価値があるといわれている)をつかわそう。」
 これは、大変巨額なお金でした。茲矩の期待の大きさがわかります。
 
「必ずや、その役目を果たしてご覧に入れましょう。」
 是兵衛は、力強く引き受けました。
 一六〇七(慶長十二)年秋、徳川幕府から朱印状を受け取った是兵衛は船乗りをしたがえて気高港(今の鳥取市にある港)を出発し、りっぱに役目を果たし、帰って来ました。喜んだ茲矩は約束通り、是兵衛に銀をさずけました。是兵衛はそのお金を家宝として子孫に残しました。
 それ以来、是兵衛は毎年のように南方貿易に出かけました。刀剣、銅、扇子、屏風、漆器類などを輸出し、絹織物、綿糸、陶器、薬、本を輸入したといわれています。彼が訪れた地は中国、朝鮮はもちろんのこと、琉球(今の沖縄)、台湾、ルソン(今のフィリピン)、カンボジア、シャム(今のタイ)などでした。
 
当時の交易関係地図
当時の交易関係地図
『社会科中学生の歴史』帝国書院2005年をもとに作成
 
 一六一七(元和三)年七月、大阪冬の陣、夏の陣で手柄をたてた二代目、亀井政矩は津和野城主となりました。是兵衛はすでに六十歳をこえる高齢になっていましたので、船長の役目はとかれていました。是兵衛をよく知っている茲矩の子である政矩は、是兵衛に言いました。
「是兵衛、これからはここ津和野の地でゆっくり余生を楽しめ。それが父、茲矩に代わってわしがおまえにできる、せめてもの恩返しじゃ。」
是兵衛は政矩に深々と礼をしながら答えました。
「殿、もったいないお言葉、ありがとうございました。しかし、私はもともと漁師の出、若いころ、情熱を傾け乗りこえて行った海を見ながら余生をおくりたいと思っています。もし、飯浦の地に住むことを許されるのなら、そこに住みたいのですが、いかがでしょうか。」
 政矩は是兵衛の願いを聞き入れ、彼を飯浦、美濃地の村役人にひきたてました。
 是兵衛は、それからも飯浦の民のために精力的に働きました。まず最初に、飯浦の漁師のために進んだ新しい漁法を教えました。そのおかげで、村は大変豊かになりました。また、飯浦港を修理し、南方貿易を行う大船でも入れる港にしました。その結果、政矩も飯浦港を基地として朱印船貿易を行うことができました。今でも津和野町から西益田付近によく見られる「しゅろ」、「ばしょう」、「こうぞ」などのめずらしい樹木は当時の貿易によって、南の国から伝わったものだといわれています。
 
シュロの樹
シュロの樹
 
 一六一九(元和五)年四月二十一日、是兵衛は六十七歳で亡くなりました。外国との貿易に命をかけ、荒波をのりこえてきた是兵衛は「朝鮮が見える高い所に埋葬してほしい。」という遺言を残しました。海が大好きだった是兵衛は、海が好きな一人の男として死にたかったのでしょう。
 是兵衛が命をかけた朱印船貿易は一六三五(寛永十二)年、海外渡航禁止令が出るまで続きました。
 
☆もっと調べてみたい人は、小野公民館の人に聞いてみましょう。
 
「人形岩」
  飯浦の海には、「人形岩」という岩があります。高さは約八メートルで、日本海の荒波によって削り作られた自然の作品です。
  岩は黒色で、肩から腰にかけて茶色の着物を羽織っているような形をしていることから、柿本人麿のように見えると言う人もいます。
 
人形岩