わが村の「科学者」斎藤勝広

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 ある晴れた日曜日の夕方、おじいさんと孫娘の二人が、今はもう閉校になった梅月小学校のそばを散歩していました。昭和三十年のころの話です。
「おじいちゃん、この墓は大きな墓じゃねえ。だれの墓なん?」
「洋子、これは墓じゃあないで。これは斎藤勝広さんという人がすごくみんなのためになることをやったので、勝広さんに感謝しようということで建てられた石碑じゃ。」
 
旧梅月小学校跡に立つ石碑
旧梅月小学校跡に立つ石碑
 
「おじいちゃん、その人、どんなことをやったん?」
「そうじゃのう。ええ機会じゃけぇ、洋子にも斎藤勝広さんのことを話してやろうかのう。」
 二人はそばの石がきにこしかけました。おじいさんは、洋子に斎藤勝広さんのことを話し始めました。
 
斎藤勝広
斎藤勝広
 
「勝広さんは、江戸時代の終わりごろに内田村(今の内田町)の庄屋の子として生まれたんじゃ。」
「庄屋って?」
「そうじゃのう。村をまとめるリーダーのような家のことじゃ。じゃが、勝広さんが子どものころ、斎藤家はお米を近所の家から借りたり、お金を借りたりするほど貧しかった。じゃから、勝広さんは、お父さんを助けるために、毎日、朝早くから夜おそくまで働き、田畑を耕し、荒れ地を切り開いていたそうじゃ。」
「へえ。」
「それだけじゃないぞ。勝広さんは昼間、農作業に精を出すかたわら、夜は寝る間を惜しんでぶち勉強して、難しい本も読めたし、字も書けるようになったんじゃ。これは当時の人としては、とても珍しいことじゃった。」
「そうか、勝広さんはがんばってよく勉強した人だったんだね。」
「洋子、勝広さんはただ勉強ができただけの人じゃないぞ。そうじゃのう、わしは勝広さんを〈科学者〉じゃと思うとる。」
「どういうこと?」
「勝広さんは書物を読んで作物の新しい作り方を知ると、それを実際に試してみて、よい結果が出ると村の農家にすすめたんじゃ。」
「おじいちゃん、勝広さんがすすめたことで、今もやっていることがあるの?」
「あるで。この辺の農家にたい肥の大切さを教えたのも勝広さんじゃし、水田の裏作として、れんげやクローバーなどの緑肥(※マメ科やイネ科などの植物を肥料として緑のまま土にまぜこんで、後に栽培する作物の肥料にすること)をすすめたのも勝広さんじゃ。よい種や苗木を求めては村の人たちに無料で配り、その種や苗を増やしたり、共同で害虫を退治しないと効果がうすいことをわかりやすく説明したりしたんじゃ。」
「へえ。いろんなことをしたんじゃね。」
 
「それだけじゃない。洋子は、牛乳が好きじゃろう。じゃが、この時代にはまだ牛乳は病気になった時に医者に言われて飲むという程度のもんじゃった。そんな時代に勝広さんは牛を飼うことを村の人にすすめたんじゃ。そして、自分でも牧場を作って牛を飼い、村の人に牛乳を作ってみせたんじゃ。」
「村の人はびっくりしたろうね。本当に科学者のような人じゃね。」
 
*コラム*
 勝広は明治二十三年から牛乳を作り始めたが、益田では初めての試みであり、当時はまだ牛乳の需要が少なかったため、生乳では腐敗しやすかった。そこで牛乳よりも保存しやすく貯蔵も便利であった練乳も作っていた。

 
「まだ、あるぞ。そのころの田んぼは、小さいうえに形がまちまちで農作業をするのも不便で、収穫も上がらなかったんじゃ。そこで、勝広さんは農作業をしやすいように、田んぼの形を変えることを提案したんじゃ。」
「今も、やってるところを見たことあるよ。おじいちゃん。これだけのことをやったら、農家の人からぶち感謝されたじゃろうね。」
「じゃが、初めはそうでもなかったんじゃ。」
「どういうことなん?」
「洋子、どんなに人の役に立つことでも最初はみんな尻込みする。特に農業はそうじゃろう。変なことをしてしまったら、その一年間はお金が入らないわけだから、今までの方法を変えるというのはそんなに簡単なことではないんじゃ。」
「なるほど、そうなのか。」
「そうじゃ。だから、農家の人は、今まで精魂こめて作ってきた田んぼをどうして土の悪い田んぼといっしょにせんといけんのか、いくら勝広さんのたのみでもこれだけはできんと反対したそうじゃ。」
「ふうん。それで、勝広さんはどうしたの?」
「そこでな、勝広さんは新しいことに挑戦する農家には、惜しげもなく自分のお金を出してその活動を助けたんじゃ。」
「待って、おじいちゃん。そのお金は市や町じゃなくて、勝広さん自身が出したの?」
「そうじゃ。」
「すごいね。でも、おじいちゃん、それは勝広さんの家がお金持ちだったからできたんじゃろ。」
「それが違うんじゃ、洋子。」
「どういうこと?」
「勝広さんの生活は非常に質素なもんじゃった。服はどんな時でも木綿以外は着なかったそうじゃ。そしてな、農家にお金を出したり、堤防や道路、小学校の建設などに寄付したりしたんじゃ。わしは小さい時、わしのじいちゃんから、勝広さんが、病気や火災で困っている人を救うためにお金を寄付した話を聞いたことがある。斎藤勝広さんは、そんな人だったんじゃ。」
「すごいね。私、感激したよ。これからここで遊ぶとき、この石碑を見たら今の話を思い出すことにするよ。でも、勝広さんはなぜ、そんなことができたのかな?」
「洋子はなぜだと思う。」
「よくわからんけど、周りの人に幸せになってほしいという気持ちが強かったからかな。たぶん、勝広さんは周りの人を喜ばせることが好きな人だったと思う。」
「おじいちゃんも、そんな感じがするよ。」
「じいちゃん、私、大きくなったら、何ができるかわからないけど、勝広さんみたいな人の役に立つ大人になろうと思う。」
「そりゃあ、わしも洋子がどんな大人になるか見るために長生きせんといかんな。さて、そろそろ、夕御飯もできたころかな。洋子、家に帰るか。」
 日はかたむき、手をつないだ二人の影をさらにのばしていました。天国の勝広さん(※一九一〇(明治四十三)年八月二十日没)は照れながらも顔をほころばせて二人の会話を聞いていることでしょう。おそらく明日もきっとよい天気です。
 
斎藤勝広の著書
斎藤勝広の著書
(国会図書館近代デジタルライブラリー提供)
 
斎藤勝広の演説筆記
斎藤勝広の演説筆記
(国会図書館近代デジタルライブラリー提供)
 
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