潮恵之輔は一八八一(明治十四)年八月十一日、益田市の横田で生まれました。大変な努力家で小学校時代は帰宅後、その日の復習がすまないと遊びに出ませんでした。そんな恵之輔でしたから、学業の成績が優秀な子どもたちが集まる町の大会に、小学校の代表として参加し、優秀な成績を収めました。とくに、恵之輔が得意だったのが作文です。
「稲は種籾を水に浸して四月ごろに苗代に蒔付け、苗が四、五寸に成長した六月ごろに本田に田植えして、度々草を取って成長するものとして秋十月ごろ実るものである。そうして米は五穀にして我等の生活の上、一日も欠くべからざる大切なものである。」
恵之輔が小学校三年生の時に書いた作文の一部です。しかし、恵之輔は勉強ばかりをしている子どもではありませんでした。休みの日には、近所の同級生と野山や川をかけまわり、ずいぶんないたずらっ子でしかられることも多い元気な子どもでした。
そんな恵之輔が尊敬していた人が二人いました。一人は父、房太郎です。父は、子どもたちがりっぱに育ってくれることをいつも願っていました。
「この木が大きくなるまでに、子どもらをりっぱにする。」
恵之輔が生まれたときに、父はこう言って一本の桐の木を植えました。そして、子どもの誕生日には、神様に子どもの成長を祈り続けました。恵之輔はそんな父の思いをひしひしと感じていました。恵之輔をいつも支えていたもう一人が、兄、恒太郎(※)です。恵之輔が生まれたときに兄はすでに村の役場で働きながら、裁判官になるために必死に勉強をしていました。そんな兄は、恵之輔のことを思う気持ちが人一倍強かったのです。
※*コラム*
【潮恒太郎】
兄恒太郎は後に上席予審判事となり、一九一九(大正八)年に死亡するまで、幸徳秋水事件など重大な事件を担当しました。恒太郎の妻は、秦佐八郎博士の姉です。
【潮恒太郎】
兄恒太郎は後に上席予審判事となり、一九一九(大正八)年に死亡するまで、幸徳秋水事件など重大な事件を担当しました。恒太郎の妻は、秦佐八郎博士の姉です。
「自分はちゃんとした教育を受けていない。しかし、恵之輔だけはしっかり勉強させてやりたい。」
兄は自分の給料から恵之輔の学費を送り続けました。
「私は本当に幸せ者だ。この二人のためにもがんばらなくてはいけない。」
恵之輔は、どんなにつらいときも父と兄の思いを支えにして、勉強に打ち込みました。恵之輔がその後、東京帝国大学(今の東京大学)に進学し、思い切り勉強や運動ができたのは、この二人のおかげといってもいいでしょう。大学でも他の者がほとんど歯が立たないほどの秀才ぶりを発揮し、卒業後は内務省に就職しました。
役所では恵之輔は自分に与えられた仕事を一生懸命やり続けました。恵之輔は、どんな仕事をするときでも猛烈に勉強し、周到に準備し、丁寧にやり遂げました。まさに、役所の「生き字引」といわれる存在になっていきました。そんな恵之輔のことを、周りの人はだんだんと信頼するようになったのです。そして、一九二八(昭和三)年、役人の最高の職である内務次官になりました。その知らせはすぐにふるさと益田に伝わり、恵之輔が益田に帰ったときの喜びようはすごいものでした。
「恵之輔さん、おめでとう。よくやったね。」
「あんたは、わしらの町のほこりだ。これからもがんばってな。」
次々に町の人が恵之輔に声をかけます。
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。」
町では花火を五十発打ち上げ、昼は小学校の子どもたちが、夜は町の人が提灯を掲げて恵之輔の出世を喜びました。恵之輔は、自分のことのように喜んでくれる町の人たちの姿を見て、一つの決意を胸に刻みました。
「みんなは私のことをこんなに思ってくれている。これからも私のできる仕事をしっかりとして、郷土の代表としてがんばろう。」
昭和3年9月帰郷時
当時の新聞記事(大阪毎日新聞・山陰版昭和3年9月13日付)
恵之輔が内務次官であったとき、日本は大きな曲がり角に立っていました。一九〇四(明治三十七)年の日露戦争の勝利によって、日本の満州(※当時の中国東北地方の名前)進出が本格化し、昭和の初めには約二十万人以上の日本人が満州に住んでいました。しかし、日本の進出に不満を持っていた中国との関係が悪化し、ついに一九三一(昭和六)年、満州事変が起こります。すると、国内でも軍部の力がだんだんと強まり、翌年、海軍の青年将校(※軍隊において主に少尉以上の軍人)によって犬養毅首相が暗殺されるという「五・一五事件」が起きました。このような大変な時代に、恵之輔は内務次官として、国の政治を支え続けたのです。
「日本はこのままでいいのか。今一度過去何千年の歩みを分析し、日本の進むべき道を考えなくてはいけない。私のできることは何だろうか。」
大変な読書家であった恵之輔は、仕事の書類のほか、多くの歴史書も読んでいました。そんな恵之輔の頭にあるのは、自分の仕事のことであり、日本の行く末のことでした。
そんなとき、またも大事件が起こります。一九三六(昭和十一)年の二月二十六日早朝、陸軍の青年将校たちが約千四百人の兵を率いて岡田啓介首相らを襲ったのです(二・二六事件)。これ以後、日本国内の軍国主義の動きはますます強まっていきました。この非常時に、恵之輔は、ついに広田弘毅内閣の内務大臣(文部大臣を兼ねる)にまでなったのです。益田で初めて誕生した大臣でした。
二・二六事件を報じた新聞記事(東京日日新聞昭和11年2月27日付)
「今、日本は大変な時代にさしかかっています。この困難を克服するためには、日本国民が大いに奮起しなければなりません。歴史をふりかえってみても、日本は困難な時代も少なくありませんでした。しかし、我々の祖先も死力を尽くして克服してきたのです。」
恵之輔は大臣に就任にするにあたって、力強く国民に訴えかけました。このような激動の時代に、国内の政治をまとめる仕事を任された恵之輔の苦労は、並大抵のものではありませんでした。それでも、恵之輔は自分の仕事をやり抜きました。
*コラム*
〈広田内閣の主な閣僚〉
内閣総理大臣 広田弘毅
外務大臣 広田弘毅(兼)
内務大臣 潮恵之輔
大蔵大臣 馬場鍈一
陸軍大臣 寺内寿一
海軍大臣 永野修身
司法大臣 林頼三郎
文部大臣 潮恵之輔(兼)
農林大臣 島田俊雄
(島田俊雄は潮恵之輔とともに島根県出身の大臣です。)
〈広田内閣の主な閣僚〉
内閣総理大臣 広田弘毅
外務大臣 広田弘毅(兼)
内務大臣 潮恵之輔
大蔵大臣 馬場鍈一
陸軍大臣 寺内寿一
海軍大臣 永野修身
司法大臣 林頼三郎
文部大臣 潮恵之輔(兼)
農林大臣 島田俊雄
(島田俊雄は潮恵之輔とともに島根県出身の大臣です。)
一年後、広田内閣は軍部の強い力が引き起こす歴史のうねりに飲み込まれ、短命に終わります。これにより、恵之輔は大臣をやめることになりましたが、恵之輔の国を思う気持ちはこの後も生き続けました。終戦後は枢密院(※明治憲法下の天皇の最高諮問機関)副議長として、日本国憲法の制定にも力を尽くしました。そして、一九五五(昭和三十)年一月九日、国のための仕事に一生を捧げた七十三歳の生涯を閉じました。
「故郷も変わりましたよ。九年前には益田から駅までには人家が五、六軒しかなかったのが、今では家がずっと続いています。何といっても、島根県下では東では今市(今の出雲市)、西では益田が将来大発展するでしょう。」
内務次官だった昭和の初め、国内の様子を知り尽くした恵之輔が語った言葉です。この言葉に勇気づけられた町の人々は、今もふるさとをよくするために努力を続けています。
潮恵之輔顕彰碑(西益田小学校内)
☆もっと調べてみたい人は、『元内務大臣 正二位勲一等 潮恵之輔先生』(中島頼重著・市立図書館蔵)を読んだり、豊田公民館の人に聞いたりしてみましょう。