可部安都志
「今からの世の中は、学問をすることがなによりも大切です。」
ここ上黒谷村の靏廼舎塾で、多くの弟子を前に熱っぽく語っているのは可部安都志です。
およそ農村では、文字の読み書きができる人は、神官僧侶(※神社の宮司やお寺の和尚)ぐらいであまり多くなかった江戸時代において、農家に生まれて、医者を志し、さらに国学(※日本古来の歴史や文学などを研究する学問)を修め、多くの弟子を教育していた篤学(※熱心に勉強にはげむこと)の人がいました。その人こそ可部安都志です。
可部安都志は一八〇六(文化三)年、上黒谷村(益田市上黒谷町)に生まれました。今からおよそ二百年前、江戸時代の終わりごろです。安都志は少年のころ、すごく楽しみにしていることがありました。それは、父が仕事の合間で読み書きをしている時、その横に座って、見よう見まねで読み書きをすることでした。
安都志の読み書きや書物への関心は年を追うごとに強くなっていきました。
「この子は、本当に学問の好きな子どもだ。読み書きをもっと習わして、さきざき医者にしてやろう。このあたりには、医者がいなくてこまっているからな。」
父は、安都志を見て、つねづねこう考えていました。
安都志が十一歳の春のことです。洞運宜謙というお坊さんが安芸の国(今の広島県)から上黒谷村にやってきました。父はすぐに洞運にお願いして、安都志に読み書きを習わせました。この洞運との出会いが安都志の一生に大きな影響を与えることになりました。
安都志は読み書きを熱心に習いました。その上達ぶりに洞運は驚くばかりでした。
「安都志、これからの時代は、いろんな学問を身につけることが大切じゃ。」
洞運は、幼い安都志に熱く語りかけました。
「わかりました。洞運さま、もっともっと教えてください。」
こうして、安都志は洞運が上黒谷村にいる三年の間、四書五経、文選、史記など中国の難しい本も学びました。
十四歳の夏のころから、安都志はいよいよ医者の修行を始めました。そして、二十歳のころ、広島の医者、宍戸大春が西洋医学を修めていることを聞き、どうにかして西洋医学を身につけたいと思いました。ところが周りの多くの人は、反対しました。
「日本には古来、中国の聖人から伝わったすぐれた東洋医学がある。今、その医学をさしおいて西洋の医学を習うなど、とんでもない。」
しかし、安都志は、きっぱりと言いました。
「医学に東洋、西洋はありません。いいものを学びたいだけです。」
安都志は広島で西洋医学を学び始めました。そして、一年ほどたって、郷里に帰った安都志は、自宅で開業しました。
「医は仁術である。決して財産をたくわえることを考えてはならない。」
安都志はいつもこう言って、心をこめて診察しました。また、貧しい人からは決して薬代を取りませんでした。一八四四(天保十五)年に上黒谷村や近くの村に伝染病の赤痢が流行した時は、先頭に立って世話をしました。自宅の前には薬を備え、通行する人に無料で薬を飲ませました。このことは津和野藩の殿様であった亀井茲監の耳にも入り、十徳(※この時代に学者、医者、絵描きなどが着たゆるく仕立てた衣服)を着ることが許されました。
そんな中でも、安都志はいつも新しい医学を身につけることを忘れませんでした。三十三歳の時には長崎で新しい医術を学び、三十四歳の時には京都に出て産科と外科について学びました。
このころ人々は、安都志のことを親しみをこめて「純庵さん」と呼んでいました。長崎、京都で学んだ順庵の名は、村中はもちろん、遠くの村々にも広まりました。順庵は、大病の人がいれば馬に乗ったり、かごに乗ったりして、いくら遠くでも出かけて行きました。また、順庵は、殿様が病気の時は招かれて診ることも多くありました。
そして、五十三歳の時、殿様からお呼びがかかり、次のように言われました。
「長年の功績により、そちの判断で医師の免許状を弟子たちに自由に発行してよいぞ。」
安都志は、あらためて医者になったことの喜びをかみしめていました。
一方、京都で医学を学ぶかたわら、有名な国学者平田篤胤の弟子となり、古事記、日本書紀、万葉集などの研究もしました。そんな時、一八五三(嘉永六)年にアメリカのペリーが浦賀(神奈川県横須賀市)に来ました。「黒船来航」と日本国中が大さわぎになりました。
安都志は殿様から意見を聞かれ、このように答えました。
「アメリカが日本を攻めるために、黒船を寄こしたのなら、打ちはらうべきと思います。しかし貿易のために黒船が来たのなら、心を大きくして、港を開くべきと思います。今や、世界は日本のように鎖国を許さぬ時代になっているのではないでしょうか。」
殿様は、知識豊かで、ものごとを正しく見分ける安都志の力に大いに感心しました。このように、国学者としての安都志の考えは、津和野藩や多くの人々に影響を与えました。
また、安都志は医者の仕事を続けながら、ふるさとで人々の教育に力を注ぎました。安都志は自分の家の別室に「靏廼舎塾」と名をつけた塾を開きました。そこには安都志を慕って、上黒谷村のみならず、遠くの村からも多くの若者が集まりました。その数は二百名を超えたといわれます。塾は毎日、若者たちの熱気があふれていました。
「今、時代が大きく変わろうとしています。日本人のだれもが学問をしなければなりません。そして、知識を豊かにし、ものごとを正しく見分ける力をつけていくことが大切です。」
安都志は熱心に学問の大切さを説きました。
「いそがしい中にあっても、本を読むことが大事です。本は自分を高めてくれます。」
安都志の蔵にはたくさんの本がありました。安都志は読書をとても好み、いい本があれば、値段が高くても遠くに行って買い求めました。また、読むだけでなく、たくさんの本も書きました。
靏廼舎塾で学んだ弟子の中には、二条村の村長になった斎藤真佐加や美濃郡の郡長になった山県真幸など、明治の世の中になって、活躍した人が多くいます。
こうして、学徳にすぐれた可部安都志は明治時代初めまで、医者として、国学者として、教育者として活躍しました。そして、一八七三(明治六)年五月八日、多くの業績を残してこの世を去りました。六十八歳のことでした。
☆もっと調べてみたい人は、二条公民館の人に聞いてみましょう。