「藤七と佐八郎を知らんかね。どこへ行ったのじゃろうか。」
「いつものところで遊んでいるじゃろう。あの二人なら心配ありませんよ。」
「どこかでイタズラでもしてるじゃないかと…。」
母ヒデと造酒屋の職人は、毎日のように話していました。七男藤七と八男佐八郎兄弟は、イタズラにおいては、近所でも評判でした。二人が楽しそうに帰って来ると、母は二人に声をかけました。
「佐さん(佐八郎のこと)、藤さん(藤七のこと)や、ちょっと蔵の二階に来んさい。」
「人に汚いものなどぶっかけて、何とも思わないのかね。ひどいことをして、人の心まで傷つけてしまったら、その傷はだれにも治せなくなるんですよ。そうなったら、本当の悪人になってしまう、そうなりたくないでしょう。」
「は、はい。すみません。」
と、佐八郎は素直に母の言葉にうなずきました。そんな佐八郎がノーベル賞候補にもなる立派な医学者として、世界の人々を救うとはだれが思ったでしょうか。
野口英世と秦佐八郎(同じころ一時伝染病研究所へ入所していた)
彼は、一八七三(明治六)年三月二十三日、都茂村(益田市美都町)の山根家の八男として生まれました。山根家は十四人の子宝に恵まれました。家には相当の山林や田畑があり、酒造業をしていたので、使用人も多くにぎやかな家庭で育ちました。
佐八郎が村の小学校を終わるころ、遠い親戚に当たる秦家から相談がありました。
「うちには男の子がおらんから、後継にあんたんところの佐八郎をもらえんじゃろうか。しっかり勉強させて立派な医者にさせてやりたいんじゃが。」
佐八郎にとっては、楽しい家庭から一人離れて養子に行くのはずいぶんつらいものでした。当時佐八郎は十四歳です。佐八郎は悩んだ末、力強く言いました。
「わかりました。家を出るのは寂しいけど、一生懸命勉強して偉くなります。」
こうして、佐八郎は秦家の養子になったのです。
佐八郎は、日夜励み、いつしか医学の道に進みたいと思うようになりました。そして、岡山第三高等中学校医学部へ入学するため、益田の医光寺に開かれていた進徳教社という私立の学校に入り、一年間一生懸命英語を学び、力をつけました。そして、一八九一(明治二十四)年には、十八歳で夢に見た岡山への進学ができたのです。
岡山時代には、佐八郎は「三傑(三人の優れた人)の一人」と言われるほどの勉強家で、授業で教わっただけで終わるようなものではありませんでした。ある時、佐八郎の試験の答案に、そのころ日本に入ったばかりの外国の新しい医学書に書かれていることが解答されていました。それは教授でさえ、まだ知らなかったことでした。
「岡山にはおそるべき学生がいる。」とうわさされるほどでした。
一八九八(明治三十一)年、二十五歳で東京の私立の伝染病研究所に入り、ここで所長の北里柴三郎博士(※)の指導を受けながら、細菌学の研究に打ち込みました。そんな時、神戸市でペストという恐ろしい伝染病が流行しました。ペストにかかると、八割以上の人は死んでしまいます。そのころ、ペストの研究に取り組んでいた佐八郎に、北里博士から相談がありました。
「神戸市でペストが流行って、人々が苦しんでいるそうだ。私と一緒に行ってくれないか。」
「はい。わかりました。」
北里柴三郎
※破傷風菌の純粋培養に成功した。「日本細菌学の祖」といわれている。
現地では大勢の人が苦しい、苦しいと、もがいていました。その様子を見て、二人は固く誓いました。
「この病気が広がるのを防ぐことが私たちの使命だ。最大限、がんばってくれ。」
「はい、必ずやご期待に沿うようにがんばります。」
佐八郎は、みんなの先頭に立って治療に奮闘しました。こうして神戸市での流行がおさまってから二年後、北里博士が血相を変えて佐八郎のもとにかけつけてきました。
「秦君、またペストだ!今度は和歌山県だ。」
「ま、またですか。」
「徹底した予防と治療のために、だれかが現地にとどまって、しばらく対応しないといけない。」
「わかりました。私が現地にとどまって、治療にあたりましょう。ご安心ください。」
「ありがとう。だが、君自身が感染する危険もある。くれぐれも注意してくれ。」
「はい、心得ています。」
佐八郎は、細心の注意を払いながら治療を続けました。このときも、彼の確かな技術が人々を救ったのです。
一九〇七(明治四十)年七月、ドイツのベルリンで世界各国の医学者が集まった万国衛生学会で、一人の年老いた医学者が佐八郎に声をかけました。
「ドクトル秦、君はペストの研究を何年しましたか。」
「八年ほどやりました。」
「そうか、長い研究の間、何も危険はなかったかね。」
秦とエールリッヒ博士
このとき、会話を交わしたのが、実はエールリッヒ博士で、北里博士とともにコッホ博士(※ドイツの医師、細菌学者。ノーベル生理学・医学賞を受賞している)に学んだ門下生でした。この出会いがきっかけで、エールリッヒ博士のもとで研究をすることになりました。エールリッヒ博士は、佐八郎にこう言いました。
「我々はスピロヘータという病原菌による梅毒を治す薬をつくろうとしている。」
「その薬ができれば、多くの人が救われますね。」
「そのとおりだ。秦君、よろしく頼むぞ」
「わかりました。」
さっそく、佐八郎と研究員たちは何百回という動物実験を繰り返しました。次第に、実験の成果が現れ始め、薬の完成は近づきつつありました。
「秦さん、この猿の実験がうまくいけば、もう薬は完成ですね。」
「これまで苦労してやってきたんだから、そうなればいいが…。」
秦と研究所の仲間たち(ドイツでの研究所の様子)
ところが、あと一歩というところで、猿に薬の副作用が出て、実験はうまくいきませんでした。肩を落としている研究員たちを見て、佐八郎は声をかけました。
「人に使う薬なんだ。とにかく安全でなければいけない。仕事は楽しみをもって進めれば苦はない。天運はこれを助けるという。みんな、もう一度がんばろう。」
こうして、気の遠くなるような研究を重ね、一九一〇(明治四十三)年、ついに副作用のない特効薬である「サルバルサン(エールリッヒ・秦606)」(※世界最初の化学療法剤である)が完成しました。この薬により、長い間苦しめられた伝染病や難病を治すことができるようになりました。佐八郎三十七歳の時のことでした。この成功の陰には、佐八郎の成功に向けた熱意、実験を正確にやり遂げる技術、失敗にくじけず何度も繰り返す忍耐があったのです。
佐八郎は、一九三八(昭和十三)年、六十五歳でその偉大な一生を終えました。「秦佐八郎」の名前は、サルバルサンの発見とともに、これからも長く語り継がれていくことでしょう。
サルバルサンの発見記念メダル
☆秦佐八郎について、調べてみたいことがあれば、益田市教育委員会の文化財課の人に聞いてみましょう。『まんが世紀の科学者秦佐八郎(美都町教育委員会編集)』でも調べることができます。