都茂丸山鉱山物語

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都茂丸山鉱山跡地図
 
 今から千年以上も前の平安時代の初め、朝廷は多くの金属が必要になり、全国に金銀銅のとれる山(鉱山)を探すよう国司に命じました。その命令を受けて村人が村中を調べ歩きました。
 ある夜、一人の村人が山の一つが月明かりでぼんやりと輝いていることに気が付きました。昔は鉱山を探す機械などはありません。山を歩いて偶然に鉱石を見つけるか、夜、銅をふくんだ岩が淡い緑色に光るのを探して鉱山を見つけていました。さっそく村人は鉱山を探しに、輝いていた山に出向きました。
「夜、あれだけの光を発するということは、この山のどこかにきっと宝の山、鉱山があるにちがいない。」
 村人はそう確信し、山中をくる日もくる日も探し続けました。しかし、そう簡単に鉱山を見つけることはできません。ある日、その村人は仲間を集めて言いました。
「みんな、よく聞いてくれ。朝廷は金や銀、銅がとれる山を探しておられる。このあたりにきっと鉱山があると思う。探すのを手伝ってほしい。見つけてくれればほうびを出すぞ。」
「そんな山をどんなふうにして探せばいいんかね。」
「鉱山の近くには金山草というシダがたくさん生える。そのシダがたくさん生えている場所を探せば、お宝の鉱山が近くにあるということだ。」
 
金山草
金山草
 
 そんなある日、釣りを楽しんでいた村人のひとりが川の岸辺にシダがたくさん生えている場所を見つけました。そのシダを調べると、それはまちがいなく金山草でした。村人はその付近を注意深く探し歩きました。夕方になり、疲れはてた村人が川原に腰をおろし、何気なく向かいの岩をながめると、夕日を浴びたその岩が光っているではありませんか。 
「おっ、この光はもしかして…。」
 こうして、都茂丸山鉱山は発見されました。
 
 しばらくすると都茂丸山鉱山から銅鉱石が出ることがわかり、銅鉱石から銅だけをとり出す製錬の方法が伝わりました。その方法とは、木炭をたくさん集め、その炭で炉を高温に熱し、その中に小さく砕いた銅鉱石を入れ、溶けた鉱石から純粋な銅をとり出すという方法でした。この作業から出る煙は、九州に下る高津沖の船上から、雲が湧き上がるように見えました。
 室町時代になると、都茂丸山鉱山は銅のほかに銀がとれることがわかってきました。役人たちは銅や銀があればより強い勢力を持つことができるので、全国から働く人々をたくさん集めるようになりました。鉱山の周辺には、様々な職業の人たちが集まり、にぎやかな銀山町へと発展しました。都茂丸山鉱山はとても固い山で、鉱石を掘り出すのには高い技術が必要です。このため、ここの採掘者は全国でも一目置かれるようになり、後の大森銀山の開発にもかかわりました。
 また、製錬炉でとれた銅を益田に運び出すのは大変な作業でした。深い淵や川の両岸が切り立っているので、重たい銅を人が背負って都茂から益田に下ることは、とても危険な仕事だったのです。
「なんとかとれた多くの銅を楽に運び出すことはできないだろうか。」
 そう思った村人たちは、山料の西の原から山づたいに中倉床に登り、稜線を仙道に下る「中倉往還道」という道を整備し、人や牛の背で益田に運べるようにました。それでも、重い銅を背負って運び出す作業は大変な仕事でした。村人は力を合わせて、険しい山道を通って、何度も何度も運びました。
 
*コラム*
  この当時、道中を歩く人々が馬子唄を唄っていました。
『都茂じゃどうかん
 益田じゃてきり
 間の権現
 無きゃよかろ』
『馬は七匹
 馬子衆は一人
 どれにくつ打つ
 暇もない』
  道中がつらかったことがこの唄からもわかります。

 
 江戸時代になると、この地は幕府が直接治める領地(天領)になりました。周辺の土地も銀鉱石の調査が行われ、銀がとれることも分かり、鉱山はますます栄えました。
 しかし、より多くの銀や銅を掘り出すために、穴(坑道)を奥へ奥へ地中深く掘り進めるうち、場所によっては掘った坑道が崩れたり、多量の地下水が流れ込んで事故が起きることもありました。こうして、鉱山の仕事は怖くて危ない仕事へと変わっていきました。明治時代になって、とうとう大きな事故が起こりました。
 
都茂丸山選鉱場
都茂鉱山選鉱場
 
 その日も、多くの人たちが、坑内で働いていました。なかでも、「坑内大工」と呼ばれる人たちが足場やはしごを組み、岩の弱いところがくずれ落ちないように補強し、みんなが安全に働くことができるように、とくに気を配っていました。
「どうも、このあたりの岩は弱そうだぞ。」
 一人の坑内大工が危険を感じた時、異様な物音がしました。その事故はあっという間に起きてしまいました。
「あぶない! みんなにげろ。」
 そんな声をかけたかかけないうちに、大量の岩や土が一気に崩れ落ちたのです。落盤事故です。
「おおい。だいじょうぶかあ。」
 仲間を心配した人たちは何とか助け出そうとしました。しかし大量の土と岩を前にして何もすることができませんでした。こうして、坑内奥深くで働いていた人たちが、たくさん亡くなりました。鉱山で働く人々は、多くの仲間の死をいたみ、近くのお寺に「千人塚」を建て、供養しました。
 
 鉱山では事故を経験するごとに、安全に対する意識が高まってきました。
「この山で安全に働くためには、みんなが助け合わないといけない。」
「そうだ。ここで働く者は、みんな家族だ。」
「よし、これからは、自分たちの生活は自分たちの手で守っていこう。」
 こうして、鉱山で働く人たちは、強いきずなで結ばれていきました。事故や病気で働けなくなり、薬代や入院費が払えない人のために、働く仲間がその人の暮らしを助けるようになったのです。厳しい仕事の後、仲間同士でお酒を飲む時には、仲間の大切さや助け合うすばらしさを教え合ったといいます。
 働く人のつながりが強まるにつれ、次第に安全に働くことができるような仕組みが整ってきました。そして、働いていた人から、「危険ではあるが恵まれた職場だ。」という声も聞かれるようになりました。
 
鉱山で働いていた人たち
鉱山で働いていた人たち
 
 都茂丸山鉱山は一九八七(昭和六十二)年、平安時代から続いた長い歴史にピリオドをうちました。しかし、厳しい労働の中から生まれた「人の命を大切にし、仲間同士助け合う心」は美都の人達の温かなきずなの中に今も残っています。
 
☆もっと調べてみたいと思ったときには、「都茂鉱山の歴史発見」のパンフレットやDVDを見たり、都茂公民館の人に聞いたりしてみましょう。