※索道…空中を渡したロープに輸送用の箱を付け、貨物を運ぶもの(ロープウェイ)。
みなさんは、スキー場などにあるリフトに乗ったことがありますか。
山の頂上に向かって空中を進むのは、気持ちがいいですよね。もし、そのリフトが、いくつもの山を越えて、何十キロメートルもつながっていたとしたら…。
実は、今から約百年前、私たちの益田に、日本一の長さを誇った〈荷物を運ぶリフト〉、そんなすごいものがあったのです。
文明開化(※明治時代初め、世の中が西洋化した現象)から数十年。明治時代の中ごろには、日本中に鉄道がしかれるようになり、レールを支える枕木が大量に必要でした。そのため、益田の山々からも、多くの木が切り出されていました。その頃、匹見に広大な杉の山を持ち、木を切り出す仕事をしていた増野庄三郎さんは、考え込んでいました。
「ううん。何かいい方法は、ないもんかのう。」
「どうしました、増野さん。何を悩んどられるんですか。」
まだ肌寒い昼さがりです。近くでのこをひいていた人が声をかけました。
「ああ、山で切った木を安全に、たくさん運びだせる方法を考えとるんじゃあね。」
増野さんは、ずい分、悩んでいるようでした。
「安全に、たくさんですか。今は、日本中で枕木や木炭を欲しがっとりますけえねえ。」
「そうでしょう。匹見の山には、切り続けても五十年はなくならん森林があるんじゃ。しかし、森が豊かなぶんだけ、逆に運び出すのに手間がかかるしのう。」
「匹見から益田まで、人が歩けば十時間。けど、山から切り出した木を荷馬車で運ぶと丸二日はかかるし、道がいい具合についとらんけえ、どうしようもないですよ。」
「やれんいうても、山の木はわしらにとって、いや、日本にとって〈宝の山〉じゃろ。本当に、どうにかならんかのう。」
匹見の山並み
当時、匹見から益田までは、山と山の谷間をぬうように、細い道がついているだけでした。増野さんは、益田へ続く高い山々の雪を見ながら深いため息をつきました。
「いくら宝の山いうても、誰も運び出せんのじゃあ、宝の持ちぐされでさあね。いっそのこと山で切った木が、ピューって空でも飛んでくれたらええんじゃけどねえ。」
その言葉を聞いて、増野さんは、パッとひらめきました。
「え、何だって?それじゃあや!山の上を飛ばせて運ぶんじゃ。ワイヤーをつないで山を越えていく空中索道を作ればええんじゃ。」
「空中を?」
「そう。来年には、益田にも鉄道が開通して、駅ができるしのう。きっと多くの木が必要になるじゃろう。索道があれば、大量の木材や木炭を運び出すことができるぞ。」
「でも、いくら便利ちゅうても、そんなものを作るには、すごくお金がかかりゃあせんですか。」
確かに、空中索道を作るには、当時のお金で七十五万円(今のお金で約十八億円以上)ものばく大な建設費が必要でした。それでも、増野さんは平気な顔で答えます。
「お金のことは心配いらん。索道ができたら、わしの山の杉を売ればええ。」
増野さんは杉山の杉七万本を売って、その費用にあてるつもりでした。
「そうじゃのう。しかし、こりゃあ増野さんだけじゃなくて、もっと大勢の人に協力してもらった方がええんじゃないろうか。」
「そりゃあ、その方がえかろう。」
こうして、一九二三(大正十二)年、当時の益田町長を中心に、増野さんや地元の人たちがお金を出し合い、索道株式会社(島根県で二番目にできた株式会社)が作られました。
さっそく、工事が始まりましたが、これほど長い距離の索道を作るのは大事業でした。道のない山の中に、コンクリートや鉄骨を運び、索道の柱となる鉄塔を一本一本立てねばなりません。そこで、匹見や益田に住む地元の人たちが、声をあげます。
「みんなで、工事に協力しようじゃないか。」
「そうじゃ。だれもが、できることをやろうで。」
「一日でも早く、みんなの手で、この索道を完成させようや。」
地元の人はみんな、この索道ができることを心待ちにしており、進んで協力しました。一日ごとに伸びていく銀色の鉄線を、大人も子どももワクワクしながら見守っていました。 一九二四(大正十三)年四月、ついに索道が完成しました。匹見から益田まで、全長三十四キロメートル。その間に十個の駅を作り、二百十五本の鉄塔に太いワイヤーがかけられました。これで、一日に四十トン(大人五百人以上の重さ)もの木材や木炭を運び出せるようになりました。また、匹見から益田駅までわずか五時間で荷物を運べ、運賃は荷馬車の半分でした。しょうゆが欲しいと思っても、背中に一升瓶を背負って、丸一日かけて歩いていたことを考えると、夢のようでした。
「ほんに、この索道はすごいもんじゃ。」
「そうじゃのう。あの鉄線が益田までつながっているとはのう。」
はるかにけむる山々に向かって、たくさんの荷物をゆうゆうと運ぶリフトを、行き交う人々はみんな足を止めて見上げていました。
索道
一九二五(大正十四)年には、一年間で八千トンの木材や木炭が匹見から運び出され、益田駅から貨物列車にのって、日本中へと送られました。
索道の経路
索道の完成で、〈匹見銀座は木材様〉と言われるほどのにぎわいになりました。山から宝の木を運び出すかわりに、益田から味噌や酒、油など生活に使うものが運ばれました。意外かも知れませんが、そのころの匹見には、海の新鮮な魚を売る魚屋が何軒もあったそうです。また、益田から牛乳を毎日届けるため、牛乳瓶を入れる箱のついた専用リフトもありました。さらに、索道や山で働く人たちが増え、料理屋や映画館などもできました。西洋の音楽、面白い本、流行の服なども手に入り、匹見は活気に満ちた〝ハイカラ〟なまちになっていきました。それらはみんな、索道が運んできたのです。
索道の搬器(ジャパン総研提供)
しかし、多くの人々の暮らしを支えた索道も、一九五一(昭和二十六)年には取り外されることになります。新しい広い道ができ、物を運ぶ仕事がトラックに変わったからです。あのころの姿を残すものは、もう索道の土台だけになってしまいました。しかし、取り外された鉄塔やワイヤーは、新しい鉄に生まれ変わりました。戦争が終わり、新しい日本を作る建物や橋の材料になったのです。もしかしたら、みなさんの学校にも〈索道の鉄〉が使われているかもしれません。益田索道は姿を消していますが、今でも私たちの生活の中で生き続けています。
索道跡(匹見町)
☆もっと調べてみたいときには、匹見上地区振興センター(匹見上公民館)の人に聞いてみましょう。『索道のしおり』という本や、益田索道の模型や当時の写真が多数あります。