「これは何だ?」
川辺で遺跡調査をしていた人たちの間に、急に緊張が走りました。ここは、匹見町道川の出合原地区。そばには、子どもたちが元気に通う道川小学校が見えます。
「間違いない。これは、縄文土器だ。ついに見つけたぞ!」
新槇原遺跡の位置
この場所で、縄文土器が見つかったのです。それは縄文土器でもかなり古いものでした。
「もっと掘ってみよう。何か他にも見つかるかもしれないぞ。」
調査員の指示のもと、さらに掘ってみましたが、その土器より下には火山灰のような土がたまっていて、何も見つかりません。それでも、あきらめずに一か所だけ掘り進めてみることにしました。
新槇原遺跡の地層
新槇原遺跡の出土品
「おや、これは?」
小さな石のかけらが出てきました。その形から、人間が加工した破片であることは明らかなものでした。
「やはり、ここで縄文人が暮らしていたんだ。」
これが旧石器時代の「新槇原遺跡」発見の瞬間だったのです。新槇原遺跡は、今から二万二千年以上前のもので、島根県内でも最も古い遺跡です。匹見町には、この他にも、田中ノ尻・山崎・ヨレ・イセ・石ヶ坪など数多くの縄文遺跡(※平成二十年現在で、六十五か所確認されている)が見つかっており、大昔の人の暮らしの跡が今に伝わっています。
匹見地域に最初に人々が住み始めたのは、今から二万三千年前という気の遠くなるような遥か昔です。そんな大昔から、この匹見町には、今日まで途切れることなく人々が住み続け、匹見の豊かな自然とともに暮らしてきました。田中ノ尻遺跡では、約一万年前の調理場跡と思われる「集石炉」が発見されています。おそらく、縄文の人たちは森からとってきた木の実を焼いたり、砕いたりして食べていたのでしょう。ヨレ・イセ・その他数か所の遺跡では、竪穴住居跡の近くでトチの実を保存した「貯蔵穴」というものも発見されています。もしかすると、ダンゴのようなものにして食べていたのかもしれません。遺跡のそばに立つと、そんな縄文人の息遣いが聞こえてくるような気がします。ここで、縄文人の暮らしを少しのぞいてみましょう。
石ヶ坪遺跡から出土した土器群(縄文中~後期)
ムラでは、女たちがきれいな縄の模様をつけたのちに「縄文土器」と呼ばれる土器を作っています。
「さあみんな、土をこねるよ。」
年上の女たちは声をかけ合います。チヨとトモの母親もいっしょです。こちらでは、チヨとトモが土器の形作りをしています。
「いいかい、右も左も、上からもよく見て作るんだよ。」
母親は、二人の背中から声をかけます。二人は、真剣な目で仕上げにかかっています。形や模様の仕上げは本当に大切なのです。
「私のは、ふちを少し厚くして…。それから、ここに、棒で線を引いてみよう。」
「ぼくは、ここからななめ下に縄を巻いていってと。いい感じになってきたなあ。」
トモは自分の土器をみて満足げに言いました。
「ここは、この貝の殻を押しつけて…。ああ、いい模様ができた。」
チヨの土器もあと少しで完成です。指先の力加減ひとつで、形、模様は大きく変わります。手の作業が終わったら、あとはしっかり焼くだけです。チヨとトモは、できあがりが今から楽しみです。
女や子どもたちが土器を作っているころ、山では男たちが狩りをしています。山では一年を通して様々なものが獲れます。カモシカ、イノシシ、クマ、シカ、キジ、ウサギなどの動物。フキノトウ、ワラビ、ゼンマイなどの山菜。クリ、ドングリ、シイ、トチ、クルミなどの木の実にきのこや山いも。実りの秋には、冬に備え、忙しく野山をかけまわります。手には黒曜石のとがった石が取り付けられた「石器」と呼ばれる道具を持っています。石器に取り付けられた石は鋭く、けものの皮ふに突き刺さります。
「おい!右から、右から追い込め!」
男たちの声が山にひびき、シカをしだいに追い込みます。
「ひるむな!角に気をつけろ!」
ムラの男手で力を合わせ、シカをしとめ、ムラに持ち帰ります。
男達が獲ったえものを見て、ムラに喜びの歓声が広がります。
「お父さん、すごい!こんなに大きなシカ。けがはなかった?」
トモが父親の腕にとびつきました。
「ああ、大丈夫だ。みんなで力を合わせたからな。さあ、分けて食べよう。」
ムラのみんなは大喜びです。とった肉は土器で煮て食べることもできます。また、シカの角はつり針になり、魚を突くもりの先端にもなります。毛皮は衣服や住居で使います。このように、獲ったけものは余すことなく大切に利用されます。
今日でも、その形、模様を伝えてくれる縄文土器。鋭さもそのままに発見される石器の数々。人々の住居跡。ここ匹見には、人々が豊かに生活をしていた跡が残されています。こうした生活を支えてきたのは、匹見の豊かな森です。森は人が住むための木を育て、食べるための食料をもたらしてくれました。そして、森は川の流れを作り、魚をはぐくみました。清らかな川の流れは、全ての生き物を支えています。ここ匹見は、縄文の人たちにとって、とても暮らしやすい場所だったのです。
そんな豊かな地に、外からやってきた縄文の人たちもいました。石ヶ坪遺跡では、九州から伝わったと思われる土器も発見されています。おそらく、外から匹見に移り住んできた人たちがいたにちがいありません。また、匹見は、山口県の瀬戸内海のそばにある遺跡からも近く、匹見に住む縄文の人たちは、瀬戸内海の人たちとも交流があったことでしょう。大分県姫島産の白っぽい黒曜石が多く発見されているのもそのためでしょう。いろいろな縄文人たちの手から手に渡されて匹見までたどりついたのかもしれません。匹見には北東から南西方向に走る山地沿いに、九州や瀬戸内などの人が行き来しました。狩猟採集生活の縄文人たちにとって、匹見は山地を巡り歩く格好のルートだったのです。
縄文時代の匹見の人々の豊かな暮らし。すばらしい自然。そして、行き交う人々。その声を聴きに、匹見に来てみませんか。
匹見の秋
出土した呪術具(主に縄文晩期・市指定文化財)
☆もっと調べてみたいと思ったときには、『匹見町誌(遺跡編)』などを読んだり、匹見上公民館の人に聞いてみましょう。