ふるさと益田の誇り-「石見神楽」にかける思い

152 ~ 156 / 229ページ
 
 私は、物心ついたころから、神楽が大好きで、親戚の人たちが集まるような時には、手作りの面や弓矢、鬼棒を持って我流の神楽を披露していました。
 そんな私に、ある日、近所の神楽好きの先輩が声をかけました。
「おまえ、神楽を一緒に舞ってみるか。」
「うん、やってみたい。」
 私は二つ返事で答えました。小学四年生のときのことです。もともと私の地元では、秋祭りに地元の大人たちが、神楽や田植え囃子を練習し奉納していました。初舞台の時の私は、初めて衣装を着て神楽を舞った満足感でいっぱいでした。
 
岩戸
岩戸
 
 私が神楽を始めたころは、秋祭りなどで盛んに神楽が行われており、益田市内をはじめ六日市や柿木など、毎週のように神楽を舞いに行きました。軽快な八調子(※囃子の調子のことで、八調子神楽は六調子神楽に比べてテンポが速い)のテンポに合わせて踊るとき、私はとても心地よい気持ちになりました。
 そうしているうちに、会長から、思いもかけないお話を聞きました。
「神楽の全国大会があって、今年はうちが出ることになったぞ。」
「そうなんですか。がんばらんといけませんね」
「そうじゃ。益田の代表として、しっかりたのむぞ。」
 好きでやってきた神楽ですが、今度ばかりは身が引きしまる思いでした。このときから、以前にも増して練習に熱が入りました。そして、一九九七(平成九)年、香川県で開かれた国民文化祭に参加し、全国の人に石見神楽を見ていただきました。また、全国の様々な地域に伝わる伝統芸能と石見神楽を比べることもできました。迫力のある太鼓の音、伸びやかな笛の音、勇壮なリズム、豪華な衣装-それは、他の地方にはないすばらしいものであることを改めて感じました。そして、石見神楽を舞うことに誇りを感じている自分がそこにいました。
 
お囃子
お囃子
 
 こうして、小・中・高校とずっと神楽を生活の一部として続けていましたので、就職を考えるとき、「ふるさと益田に残って神楽を続けたい」と強く思うようになっていました。そして、益田に就職してからも、韓国、中国をはじめドイツやトルコ、ウクライナ、カタールなど海外公演も経験することができました。
 神楽はどこの国に行っても、大変好評を得ることができました。上演が終わると、現地の人から、いつも質問攻めに合いました。
「あの衣装はどうしたのですか。どうやって作るのですか。」
「職人さんがひと針ひと針手作業で作っているのです。」
「いつごろから、神楽はあるのですか。」
「もともとの神楽の起こりは、千年以上前からと言われています。これが形を変えながら、今日まで受け継がれてきたそうです。」
「あの踊りはどんな意味があるのですか。」
「もともとは、秋の豊かな実りに感謝するために、宮司さんが神様に捧げる舞いでした。それが、今から百年前ごろ村の人々が舞うようになったそうです。」
 外国の人にとって、神楽の踊りはとてもめずらしいものだったのです。とくに、激しい太鼓のリズムに合わせて踊る大蛇とその首を切るスサノオノミコトが争う場面は、見る人の目を釘付けにしました。海外公演を重ねる中で、神楽はどこに行っても、見た人を魅了できる芸能だと自信を持つことができ、石見神楽への誇りがさらに高まりました。
 
鍾馗
鍾馗
 
神迎え
神迎え
 
大蛇
大蛇
 
神武
神武
 
 私は神楽を続ける中で、神楽の楽しさを知り、ふるさとのすばらしさに気づき、益田に残ろうと決意しました。ぜひ、益田の子どもたちにも、神楽を通じて、ふるさとを誇りに思えるようになってほしいと願っています。また、ふるさとに残って、ふるさとのよさを伝えていきたいと思えるような子どもに育ってほしいと願っています。私は、これからも仲間とともに、子どもたちが神楽を舞うチャンスと環境をいつまでも残していきたいと思います。
 
☆もっと調べてみたい人は、益田市のホームページの「文化・歴史・観光」のコーナーなどで調べてみましょう。石見神楽のことがくわしく紹介されています。
 益田市には、「神和会」という神楽の団体があり、いろいろな地区の社中が活動をしています。(平成二十三年現在、十三社中)