今日は、社会科の調べ学習で、島根大学の石賀裕明先生から、益田平野の秘密を教えてもらうことになっています。どんなお話が聞けるのでしょうか。
「石賀先生、初めまして。私は、小学校六年生の村上安子といいます。今日は、大昔の益田平野の地形とか、そこに住んでいた人々がどんな生活をしていたのか、先生からお話を聞けるということで、とても楽しみにして来ました。よろしくお願いします。」
「わかりました。こちらこそ、どうぞよろしく。ところで安子さんは、今、大昔って言ったけど、どれくらい前のことをイメージしているのかな?」
「小学校の歴史の勉強で、縄文時代とか、弥生時代とかいう時代のことを習いました。その時代の益田平野の様子を教えていただけませんか。」
「縄文時代というのは今から一万二千年ぐらい前から二千四百年ぐらい前の約一万年間も続いた時代なんです。」
「えっ、そんなに長いんですか。縄文時代って。」
「ちなみに、弥生時代は二千四百年ぐらい前から千七百年ぐらい前の約九百年間の長さですよ。」
「私、縄文と弥生って同じくらいの長さの時代と思っていましたが、かなり長さが違うんですね。」
益田平野(西日本企画提供)
「縄文や弥生のお話をする前に、益田平野の地層の話を少ししてみましょう。
益田平野の地層を調べてみると、砂や小石の層の上に粘土の層が積み重なっています。砂や小石は、益田平野を流れる二つの川、益田川と高津川によって運ばれたものです。川の上流にあった大きな岩は、雨や風や太陽の熱などによってもろくなり、割れて川によって運ばれます。また、割れた岩が、水の力でさらに細かくくだかれ、小石や砂になって下流に積み重なってたまっていきます。そして、その上にさらに軽い粘土が積み重なって、地層ができていくのです。ですから、下の層ほど、古い時代の層なんだよ。
「この粘土の層についてくわしく調べてみると、およそ今から七千年前から二千年前ころできたことがわかりました。つまり、この粘土の層は、縄文時代から弥生時代にかけてたまったことになります。」
「なるほど。」
縄文時代のごろの益田の様子
「益田平野では、黒い粘土の層の厚さが二十メートルにもなっているところがあります。この粘土の層から、海に住んでいた貝殻が出てくることがあります。安子さん、これはなぜだと思いますか。」
「はい、縄文時代には、益田平野は海だったということです。」
「すばらしい。よくわかったね。このように、地面の下にある地層を調べると、昔の益田の様子がわかるのです。よく調べてみると、縄文時代には益田平野は入り組んだ海のような地形をしていたことがわかりました。」
「なるほど。」
「それが、弥生時代になると、海の水が引いて、益田平野には沼や湿地のような所が増えてきたんですよ。」
「地層を調べると、いろいろなことがわかるんですね。先生、それなら、そのころの人のくらしはどうですか。」
「その答えも地面の下にあります。今では道路や建物などをつくるときには、工事する前に地面の下を掘って、地層から昔の人々のくらしを調べることにしています。」
「そういえば、通学路のそばで、地面を掘って何か調べている人を見たことがあります。あの人たちは、昔の益田のことを調べていたのかあ。」
「そうです。それによって、益田平野より少し高台にある益田市久城町で縄文時代の遺跡として久城西Ⅱ遺跡と若葉台遺跡が発見されました。久城西Ⅱ遺跡では石やりの尖頭器(石やりの先)が見つかり、若葉台遺跡からはイノシシのような動物を獲るための直径約三メートル、深さ約二メートルの巨大な落とし穴が三基見つかりました。また、益田平野では縄文時代の終わりごろの地層から、二艘の丸木舟がほとんど完全な形で見つかっていますよ。」
沖手遺跡で発掘された丸木舟
(島根県教育庁埋蔵文化財調査センター提供)
「先生、その舟って、普通の丸木舟なんですか。」
「いい質問だね。その舟の形は底が平らな形をしています。」
「先生、それってどういうことなんですか。」
「縄文時代に益田平野にあった内海を古益田湖と我々は呼んでいますが、そこは、入り江のような浅い海、正確に言うと益田川や高津川の淡水と海水が混じる浅い海でした。そんな浅瀬を動くためには、底の平らな舟が便利だったんでしょうね。」
「先生、私、知っています。海水と淡水が混じる環境を〈汽水〉っていうんですよね。」
「安子さんは物知りですね。今の宍道湖や中海のような環境だったんでしょう。そんな環境の中で縄文人たちは、山の方ではイノシシなどの動物を獲り、眼下に広がる古益田湖では多くの種類の魚介類を獲って生活していたと思います。」
「縄文時代の益田平野の環境や縄文人の生活について、よくわかりました。先生、弥生時代になるとどうなるのですか。」
「弥生時代といえば、一番の特色は何ですか。」
「稲作が始まったことです。稲作によって、人は移動せずに一か所に住めるようになり、小さな村ができはじめました。」
「そうですね。益田平野やその近辺では、数多くの弥生時代の遺跡が発見されていますよ。その中の一つ、久城町で発見された沖手遺跡では、溝状に掘られた水田の排水路のようなものが見つかり、その中からはイネ科の植物の花粉も見つかっています。こうしたことから考えて、益田平野でも、全国と同じように稲作りにはげむ弥生人の姿があったと思います。」
「そんなことまで、わかるんですね。」
沖手遺跡
「また、もっと上の地層からは、柱を立てた穴や墓、土器などもたくさん見つかっています。おそらく、益田平野には昔もたくさんの人が住んでいたんでしょうね。」
「先生、地層を調べてみると、いろいろなことがわかるんですね。」
「そう、地層はタイムマシンのようなものですよ。」
「何だか、私も調べてみたくなりました。」
「今度一緒に、タイムマシンに乗って、昔の益田を探検しにいきますか。」
「ぜひ、お願いします。石賀先生、今日は本当にありがとうございました。」
「私も、安子さんと話をして楽しかったですよ。ありがとう。」
☆もっと調べてみたい人は、益田市教育委員会の文化財課の人に聞いてみましょう。