益田市名誉市民制定の趣旨
益田市制の発展や文化面につくされた人に贈られるよびなで、平成4年にきめられ、現在13人の方に贈られています。
島田 暉山(しまだ きざん)(1918~2003)
昭和39年から昭和51年までの長い間、益田市長として、交通や産業、老人の福祉、教育などを積極的に進め、つりあいのとれた近代都市益田市の発展に大きい仕事を残されました。
益田 都(ますだ みやこ)(1932~)
益田市の礎を築いた益田家の第38代目の夫人で、益田市の文化の仕事に大変尽くされました。益田家に伝わる重要文化財で雪舟が描いた「益田兼堯像」や石見国司「御神本国兼像」を益田市に寄贈され、また各種特別展にも協力されています。
秋吉 貫司(あきよし かんじ)(1893~1966)
昭和4年から、吉田村議会議員や益田町議会議員をつとめられ、周辺7村との合併に努力されました。また10年あまりも市議会議長として、地方の発展につくされました。
伊藤 正男(いとう まさお)(1906~1965)
昭和22年より17年の長い間、益田町長、益田市長として地方の発展につくされました。益田市の様々な制度を作られ、市民の福祉、産業、教育の発展に尽くされました。
桐田 晴喜(きりた はるき)(1922~1986)
益田市議会議員や島根県議会議員として、長い間つとめられ、多くの働きをされました。また、島根県の教育の発展にも尽くされました。
佐々木 三郎(ささき さぶろう)(1895~1975)
益田市農業協同組合長として、長い間、農業を盛んにすることに尽くされました。また、議員としてもよく尽くされました。
田畑 修一郎(たばた しゅういちろう)(1903~1943)
益田市出身の文学者で、「鳥羽家の子供」 「出雲・石見」 「郷愁」など、益田市を舞台とした小説を書きました。特に「鳥羽家の子供」は芥川賞の有力な候補になりましたが、40才の若さで病死しました。
神崎 治一郎(かんざき はるいちろう)(1924~1995)
昭和51年から平成4年までの16年の長い間、益田市長として今日の益田市の発展につくされ、平成元年には全国市長会副会長になられるなど、地方の発展にたいへん努力されました。
増野 元三(ましの もとぞう)(1912~1996)
昭和34年から平成3年まで28年の長い間、島根県議会議員や議長として、交通、産業、地域の医療、スポーツなど石見地方の発展に大きい働きをされました。
岩本 薫(いわもと かおる)(1902~1999)
昭和21年に本因坊になりました。その後、囲碁の指導と普及に努め、日本の囲碁界の発展に大きな役割を果たしました。日本文化として、囲碁の海外普及にも力をつくされました。
齋藤 都世子(さいとう とよこ)(1913~2005)
ニット・ファッションを通じ、国際的な文化交流を促進した。ニューヨーク・カーネギーホール、イタリア・フローレンス、パリ・セーヌ河畔などで成功を収めたファッションショーは、国内はもとより、世界のデザイナー「TOYOKO SAITO」を不動のものにしました。
田渕 久美子(たぶち くみこ)(1959~)
映画、舞台、ミュージカル、落語、狂言の脚本も手がけ、2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』は空前の大ヒットとなりました。また、2011年放送のNHK大河ドラマ第50作目にあたる『江~姫たちの戦国~』の執筆も手がけています。
大谷 武嘉(おおたに たけよし)(1912~2014)
昭和38年から昭和54年までの16年の長い間、旧匹見町長として住民福祉の向上のために大きな働きをされました。特に「過疎町長」として過疎地の実態を広く社会に訴え、過疎地対策のための「過疎法」制定に尽くされました。この法律は今でも全国の過疎に悩む地域の希望の光になっています。