律令は大化改新をきっかけに,整備され始めました。701(大宝元)年には大宝律令がまとめられ,天皇が全国の人々や土地を支配するしくみが整いました。
律令制では,国の中央には天皇を頂点として,下の図のように2官と8省がおかれました。地方は国・郡・里に分けられ,中央から派遣された国司が郡司や里長を監督して政治を行いました。
奈良の都・平城京は,唐の長安を手本にしてつくられ,広い道路によって碁盤の目のように区切られ,貴族や役人のやしきや大きな寺院が建っていました。平城京の人口は,1万人ほどの貴族や役人をふくめ,10万人くらい(一説によると20万人くらい)と考えられています。当時の日本の人口は600万人くらいですから,相当に大きな都市といえるでしょう。地方に住む人の多くは農民でした。地方でも役所などには大きな建物もありましたが,農村では古墳時代と同じように,竪穴式住居がふつうだったようです。
朝廷は,6年ごとに,人々の名前と年齢を書いた戸籍を作りました。戸籍は,朝廷が必要とする労働力や兵力を集めたり,税をきちんと取り立てたりするためにはなくてはならないものでした。
コラム What is your name? | |
現在の日本では,名前をよびあうことは当たり前ですが,古代において名前を自分に関係のない人に知られることは,とても困ったことでした。 この時代の女の人が男の人に名前を教えることは「結婚してもいいよ。」ということでした。また,他人に名前を知られると,のろいをかけられてしまうと信じられていたそうです。 律令制度をよく知らない普通の人たちにとって,戸籍がつくられ名前をみんなに知られるということは,私たちには考えられないくらいの大事件だったのかもしれません。 (小学館発行日本の歴史より) |
当時の下野国(しもつけのくに)の戸籍は残ってはいませんが,下野国には約10万人,都賀郡には約1万7千人が住んでいたといわれています。また,このころ,土地は律令制によってすべて天皇のものと考えられていました。国民は6才になると口分田が与えられ,死んだら返すことになっていました。農民たちは口分田を与えられるかわりに,租・調・庸・雑庸などの税や負担を負いました。
このころの農民の税や負担をまとめてみましょう。
農民の税や負担 | ||||||||
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このように,いろいろな税や負担があったので,農民の生活は苦しいものでした。万葉集で山上憶良が「貧窮問答歌」※に歌ったような苦しい生活のようすは全国で見られたと想像できます。そのため,農民の中には口分田を捨てて逃げ出したり,戸籍をいつわって税を逃れたりするものが出たといいます。
※ 貧窮問答歌… | 「地面にじかにわらをひいて休む」「かまどには火気がなく,なべにはくもの巣がはっている。」「税を取り立てる里長の声がねているところまでひびいてくる。」など農民の貧しく,苦しい生活のようすが歌われている。「万葉集」巻五にある。 |
コラム 出世がしら 下毛野古麻呂(しもつけのこまろ)
当時の下野国は,都からはずいぶん離れたところで,中央で活躍し,記録の上に残っている人を見つけることは難しい仕事です。しかし,その中の一人に下毛野古麻呂がいます。大宝律令は,刑部親王・藤原不比等などの19人の人たちによってまとめられましたが,その中の一人に下毛野古麻呂がいます。古麻呂は701年4月に,親王をはじめ朝廷の人たちに,新しくできた大宝律令の説明をする役目もしています。大宝律令をつくった功績で土地をもらったり,兵部卿・式部卿といった朝廷の重要な役職につくなど,中央で活躍しました。下毛野古麻呂は,下野古代史の上で忘れてはいけない人物といえるでしょう。