2 下野薬師寺

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 そのころは,どうしたら正式なお坊さんになれたのでしょう。それには仏教を勉強することはもちろんですが,戒という僧の守るべききまりを授けられて,初めて正式な僧として認められるのです。ところが,その戒を授けることのできる資格を持つ僧が,日本にはいませんでした。そこで鑑真和上※1が苦労の末,唐から日本にやって来ました。754年4月,東大寺に戒壇※2を作り,その後,筑紫観世音寺(福岡県太宰府町)に,761年には下野薬師寺に戒壇が作られて天下の三戒壇と呼ばれました。関東など東国で僧になるためには,下野薬師寺で戒を受けなければなりませんでした。
 では,下野薬師寺とは,どんな寺だったのでしょう。
 下野薬師寺は7世紀の後半,下毛野(しもつけの)氏の氏寺として建立されました。その後だんだんと大きくなり,8世紀の中ごろには中央の法隆寺・四天王寺と同じくらいの格式を誇っていました。東国の中で立派な寺であったということができるでしょう。
 下野薬師寺に戒壇がつくられた理由は,勝道上人※3による日光山開山にもみられるように,下野国(しもつけのくに)が仏教の盛んなところだったということのほか,朝廷で活躍していた,下毛野古麻呂(しもつけのこまろ)などの力があったと,考えられるでしょう。
 

※1 鑑真和上…中国(唐)の有名なお坊さん。失敗を重ね,盲目になりながらも日本に来ることをあきらめず,6度目の試みで来日することができた。東大寺に戒壇院を建て,のちに,唐招提寺を開く。
※2 戒壇…僧に戒を授けるための場所。土を高く盛り上げて築いた。現在でも東大寺戒壇院に見ることができる。
※3 勝道上人…下野国,芳賀郡の人という。日光山を開き,神宮寺をつくった。