[壬生氏の誕生]

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 壬生氏は,1590(天正18)年の豊臣秀吉の小田原攻めの時,後北条氏に味方していたために,後北条氏の敗北とともに滅んでしまいました。壬生氏についての記録の多くはその時失われ,壬生氏の歴史については,謎の部分が多く残っています。
 壬生氏の誕生について,壬生や鹿沼の歴史研究の中では,壬生氏が京都の官務家(朝廷の記録を守っていく役職)から出たものであるという説が有力です。
 壬生官務家の子供であった彦五郎胤業(ひこごろうたねなり)が武術を好み,武士になろうとして壬生の新町堀之内(あらまちほりのうち)にきて,筑後守と名乗り城を築いたというのです。この説は,江戸時代後期に作成された,壬生氏の系図にも書かれています。
 しかし,この説に対しては,当時の系図や資料がないことや,京都の官務家の系図に彦五郎胤業が記されていないことなどから疑問も出されています。「壬生町史」では,上三川城にいた宇都宮氏の一族である横田氏の系図に「壬生三郎朝業(ともなり)」という人物が書かれていることから,この人が横田氏から出て壬生に住み,壬生氏として宇都宮氏の有力な家臣になっていった,という説をあげています。
 壬生氏の誕生については,この他にも説があります。

下野壬生氏略系図

 
 今後の調査や研究の中で,壬生氏について様々なことが明らかにされていくかも知れません。