3 黒川の流れをかえた三浦氏

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 三浦氏は,正次,安次,明敬の三代にわたって,1639(寛永16)年から1692(元禄5)年までの53年間,壬生を治めていました。三浦氏が城主になった時,下総国(干葉県あたり)の山川領が新しく領地に加わり,幕末まで続きました。
 「壬生領史略」に,「南御門,三浦家城主たりし時大手御門」とあります。三浦氏の時には,「大手門※1」が城の南側(壬生小学校の西側あたり)にあったという意味です。80ページの地図上の南門がその名残で,当時の城下町は表町と横町が中心になっていました。
 三浦氏の時代に,この城下が大きく変わったといわれています。壬生の土地は黒川と小倉川(今の思川(おもいがわ))の合流点に近い平らな地形のため,城は洪水の被害をたびたび受けていました。また,黒川は稲葉下馬木(げばぎ)の法印渕を通り,壬生下馬木の東の方に流れていましたが,たびたび洪水を起こし,稲葉・羽生田(はにゅうだ)村は被害をうけていました。そこで,峰山に堀切(ほっきり)※2を通して,もともとは城の西側を南に流れていた黒川を,現在のように城の東を流れるように変えたといわれています。

ふれあいプールの南側にある堀切の現在の様子

 当時の黒川の流れがどうであったかは,地名や地層,先住民の住居跡,言い伝えなどから考えなければ,はっきりわかりません。しかし,当時の黒川に関係のあるといわれる地名があります。それは, 後川原・前川原・峯下川原・上川原・下川原・植木川原・釜が渕などです。また,稲葉の天志古山(てしこやま),西高野(にしごや)の諏訪神社は,川に面したおかであったということです。下の地図で,川原・沼のついている地名をたどってみましょう。

 
黒川の古い流れをたどってみよう

 

※1 大手門…城の正面入り口の門
※2 堀切…山を切り開いて水を通した所。一般に「ほりきり」といわれるが,なまって「ほっきり」となった。