常楽寺(じょうらくじ)にある「鳥居家の墓」
鳥居忠英公の肖像画
1712(正徳2)年,加藤氏が近江国水口(みなくち)へ移ると,入れ替わりに,近江国水口から鳥居伊賀守忠英(ただてる)が新城主として壬生城に入りました。それ以後,鳥居氏は七代,157年間,江戸幕府が倒れるまで続きました。
「鳥居氏=干瓢(かんぴょう)」という関係が有名ですが,実際は干瓢がどこから伝わり,壬生でいつから生産されたのかは,明らかではありません。正徳2年に壬生の城主となった鳥居忠英が,近江国水口から干瓢の種子をとりよせ,領内各地の名主に試作させたことから始まったと言われています。一方,「水口町史」には,壬生から移ってきた加藤嘉矩が,壬生からすぐれた技術を伝えたので,干瓢生産が盛んになったと書かれています。
東海道五十三次「水口名物干瓢」
昔の干瓢のむき方は? | ||
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1 .かんぴょうを輪切りにする。 | 2.小刀で輪切りのわたぬきをする。 | |
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3 .手かんなで輪切りを回してむく。 |
鳥居忠英の甲冑
壬生藩の支配組織は,今のところ,鳥居氏の時代しか,明らかでないようです。鳥居氏時代の壬生藩は他の藩と同じように江戸に上屋敷,中屋敷,下屋敷を持ち,大阪には蔵屋敷を置いていました。壬生には, 家老,年寄役,用人,郡奉行(こおりぶぎょう),町奉行,目付,吟味役,大納戸(おおなんど),代官,普請方,などの役職が置かれていました。家老は,城代ともいわれ,家臣たちの中で最も高い地位にいました。壬生の通町・表町・飯塚町(小山市)を町奉行が治め,これ以外の地域は郡奉行が治めていました。
壬生藩の郷支配
壬生藩では,壬生領(町奉行が治める町を除く)を上郷と下郷とに分け,山川領を東郷と西郷とに分けて,地方支配を行っていました。上の図がその地方支配の様子です。壬生藩の領地は壬生近辺だけでなく,遠く大和国(奈良県),播磨国(兵庫県)にもありました。
さて,18世紀中ごろをすぎると,北関東の多くの農村では,厳しい税の取り立てや,ききんによって食料がなくなるなど,さまざまな理由から村を逃げだす農民が増え,農村が荒れはてるという状態が起こりました。
1787(天明8)年と1799(寛政11)年に,ぜいたくと人口の減少が農村の荒れはてる原因だという「御触れ」が出されました。そのため,藩内の人口を増やすこと・税を確実に取ることをねらって,他の藩への奉公や他の藩の田畑を借りることなどを禁止しました。これらは,荒れた農村を立て直そうとする,幕府の寛政の改革をうけて出されたようです。さらに1800(寛政12)年には,藩の人口を増やすために子供を育てるための補助金を出すようにもなりました。
コラム 鳥居家と徳川家とのつながり | |
鳥居元忠をまつる精忠神社 | |
壬生藩の城主となった鳥居忠英の祖先である,鳥居元忠は徳川家康の小さい時から側近くに仕え,数々の苦労をいっしょにした仲だったといわれています。家康の信頼も厚く,関ケ原の戦いでは元忠は石田三成率いる西軍をはばもうとし,伏見城で生命を落としました。元忠の伏見城でのふんばりにより東軍の徳川方は時間をかせぐことができたようです。 | 鳥居元忠公肖像画〈常楽寺所蔵〉 |
この時の元忠の手柄により,この後,鳥居家は改易(とりつぶし)をまぬがれたこともあったようです。 | |
さて,壬生中央公民館の西にある精忠神社は,この鳥居元忠をまつってある神社です。この神社は,1799(寛政11)年8月に建てられ,例祭(毎年日を決めて行う祭り)は元忠戦死の日の八朔(はっさく)(旧暦の8月1日)に行われました。明治になってからも例祭には武者行列が行われていたようです。 | |
精忠神社例祭武者行列(昭和8年の広告より)