1 城下の町並み

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 壬生は城下町としてだけでなく,宿場町や商業の町としても栄えました。当時の町のようすが分かる資料として,1727(享保12)年の「壬生通町屋敷並びに尺間数書上帳」と1712(正徳2)年の「壬生表町通町明細帳」が残されています。1728(享保13)年に,将軍としては65年ぶりに八代将軍吉宗が日光のお参りをした時に,その準備として書かれたもののようです。

「壬生通町屋敷並びに尺間数書上帳」

 書上帳と,現在の壬生町の地形図を持って,実際に自分で歩いて見ると,壬生町再発見ができるかも知れません。
 書上帳には,まず中央に南の表町から新町へ通じる通町の道路を描き,その上下両側,つまり道の東側,西側あるいは南,北側に各屋敷が向きあいに書かれています。
 中には,通町の道路を中心に両側の屋敷が書き上げられています。道の中央には用水路があり,水が流れていました。
 道の西側は,南から4軒で密蔵院の入り口,一軒おいて高札,8軒の大手門入り口が本陣・名主の庄兵衛宅です。また2軒行くと興光寺の入り口,7軒で城の搦手(からめて)門(城の裏側)への搦手横町に分かれ,屋敷はまだ54軒も続いていました。当時の屋敷の多くは,むしろ敷きの表間,茶の間,物置などの4部屋から作られていたようです。
 道の東側は,屋敷が続いており,南から24軒行くと,東の舟町通りに分かれました。そこから3軒行くと千手院の入り口です。この辺は当時一番にぎやかなところで,図の中には「見せ(みせ・店)」と書かれていたり,2階の家も書かれています。続いて13軒ほど行くと無量寿院へ行く道となり,さらに7軒行くと宇都宮への道に分かれます。また西に22軒行くと福和田(ふくわた)道にぶつかり,12軒行くと台林寺の入り口で,4軒行くと自性院への入り口,さらに6軒行くと番所の空き地になり,通町はここで終りです。
 1712(正徳2)年の「壬生表町 通町明細帳」により,その当時の町の長さや人数が分かります。
 
表町の長さ7町18間半 (約800m)
通町の長さ(新町を含む)12町10間半 (約1.3km)
表町の家数162軒人数1552人
通町の家数(新町を含む)219軒人数1652人

 
 表町,通町には名主が1名ずつおかれ,名主の下に両町含わせて15名の年寄と11名の組頭がおり,「正徳明細帳の商売並びに諸職人」によると,両町の商人および職人が29種類,127人も書かれ,商工業が栄えていたことが分かります。通町では4・9の数字のつく4・9・14・19・24・29日の6日間に市が開かれました。同じように表町では2・7の数字のつく6日間に市が開かれていました。これを六斎市といいます。商業が繁栄するにつれて他の町からも人々が移り住むようになり,壬生の町はさらに活気が出てきました。
壬生の商品流通
(「正徳二年明細帳」)
当町商売物(他所より商売人買込み売買)
米,糯米(もちごめ),稗(ひえ)
大豆,小豆,そば,粉糖
ごぼう,たばこ
油,酢,醤油
塩,さかな類,干物類
干鰯(ほしか),焼酎粕,油粕
炭,薪,縄
板,敷居,鴨居,戸ぶち,戸桟
糸竪,その他の小間物,荒物
壬生両町の商人と職人
(「正徳二年明細帳」)
表町通町
造酒屋235
(他に休酒屋)
米屋268
油屋235
穀屋123
塩屋41014
魚屋235
味噌屋-33
糀屋2-2
小間物屋41721
紺屋358
薬種屋1-1
鍋屋-22
鍋鋳懸112
鍛冶屋314
大工9615
桶屋235
萱屋根葺224
板屋根葺112
壁塗師213
木挽224
唐笠・提灯張112
檜物屋-11
金具彫物師-11
とき鞘師1-1
筆屋-11
差物屋-11
仕立屋-22
舟大工-11
乗物屋-11
20種
49人
26種
78人
29種
127人
正徳二年表町・通町明細帳
(壬生町大島忠介家蔵)