2 将軍の壬生宿城

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 江戸時代の壬生は,日光道中壬生通りの名前のとおり,日光参拝の道の宿場町でもありました。特に将軍の日光社参で壬生城は,将軍が泊る宿として使われました。将軍の日光社参は1617(元和3)年,二代将軍秀忠の時に始まり,それ以後幕末まで19回行われました。そのうち16回は秀忠から四代家綱までの間に行われたのですが,多くの費用がかかるため,その後は中断されました。そして八代将軍の吉宗が1728(享保13)年に65年ぶりに復活させ,十代家治と十二代家慶の時にそれぞれ一度ずつと回数は減りましたが行われました。
 「寛政重修諸家譜」には,城主の日根野吉明のとき,二代将軍秀忠が壬生に立ち寄り,三浦正次と子の安次が城主のときにも三代将軍家光が立ち寄ったことが書かれています。吉宗以降は壬生を通らず,往復とも宇都宮を通ることになりましたが,それまで分かっているだけでも8回,壬生城に将軍が宿泊しました。
 将軍の一行が壬生を通ったときは,将軍は壬生城に,家来たちは本陣や宿に泊まったのです。次にあげるのは,1648(慶安元)年の日光社参のときの宿泊のようすです。
・家臣団の筆頭の彦根藩主井伊掃部頭(いいかもんのかみ)本陣庄兵衛宅と千手院
・将軍家光の異母弟の会津藩主保科正之興生寺(こうしょうじ)と今井町の藤左衛門・兵左衛門宅
・大老酒井忠勝→壬生藩士荒尾庄右衛門の屋敷と興光寺
・従ってきた大名等→壬生藩家臣の屋敷や寺院
・それ以下の者→町内の町屋

 将軍は多くの人をお供にしたので,宿が不足しました。その時は,箕輪村(下野市)や下稲葉村に泊ったり,小山や奈佐原宿(鹿沼市)の村々にも泊りました。