「寛政重修諸家譜」には,城主の日根野吉明のとき,二代将軍秀忠が壬生に立ち寄り,三浦正次と子の安次が城主のときにも三代将軍家光が立ち寄ったことが書かれています。吉宗以降は壬生を通らず,往復とも宇都宮を通ることになりましたが,それまで分かっているだけでも8回,壬生城に将軍が宿泊しました。
将軍の一行が壬生を通ったときは,将軍は壬生城に,家来たちは本陣や宿に泊まったのです。次にあげるのは,1648(慶安元)年の日光社参のときの宿泊のようすです。
・家臣団の筆頭の彦根藩主井伊掃部頭(いいかもんのかみ) | → | 本陣庄兵衛宅と千手院 |
・将軍家光の異母弟の会津藩主保科正之 | → | 興生寺(こうしょうじ)と今井町の藤左衛門・兵左衛門宅 |
・大老酒井忠勝→壬生藩士荒尾庄右衛門の屋敷と興光寺 | ||
・従ってきた大名等→壬生藩家臣の屋敷や寺院 | ||
・それ以下の者→町内の町屋 |
将軍は多くの人をお供にしたので,宿が不足しました。その時は,箕輪村(下野市)や下稲葉村に泊ったり,小山や奈佐原宿(鹿沼市)の村々にも泊りました。
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