2 村の支配

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 村々を支配するためには,まず村の範囲とそこに住む農民の数をはっきりさせ,だれがどれだけの年貢を支払うのかをつかむことが必要です。このために田畑の耕作者や面積を調べたのが検地です。16世紀末の,豊臣秀吉の太閤検地がその最初で,壬生では福和田(ふくわた)村の検地帳を写したものが残っています。ここには,21名の土地所有者の名と面積が書かれていて,所有者のうち75%が1町歩(1ha)以上の広い農地をもっています。当時の農業の技術から1町歩以上の土地を耕すには,農家に仕える人が必要だったと考えられています。ところが43年後の1636(寛永13)年同じ福和田村の調べでは,45人の土地の持ち主が登録され,翌年にはさらに27人増え、72人になっています。この時期に農民一人一人が支配者の帳簿に記され,年貢を負担するようになってきたことがわかります。
 

福和田村検地帳

検地のようす

 
 江戸時代の初めのころ,かつての壬生氏の家臣たちが村々に住みついてお互いに親戚関係を結び,名主・組頭・百姓代という村役人となって村の中心的役割を果たしていきました。
 名主は,領主から命令された年貢やさまざまな負担を,村民全体に割り当てて集めたりすることが,第一の仕事でした。その他,用水を管理したり,領主からの命令を伝えたりするなどの仕事がありました。村役人は領主から特別扱いをされ,外出の時には羽織を着たり,刀を持つ特権が与えられていました。
 一方,一般の農民には,お互いに生活を監視させ,年貢を払えない農民の分も組の中で支払うようにさせる,五人組という制度がありました。名主は,毎年五人組の家を確認して,名前を書いた五人組帳を代官所に差し出しました。そして,毎月一回,村中の農民に五人組帳の最初に書いてある約束を読んで聞かせ,字の読めない農民にきまりを伝えました。また,人通りの多い四つ角などに命令を書いた「高札」が立てられました。
 
これもダメ・あれもダメ

1693年福和田村の五人組帳の約束から

  • かけごと(博打ばくち)をしてはいけない。
  • よそから来たよくわからない人をとめてはいけない。
  • 親不孝をしたり,大酒をのんだり,
    けんかの好きなわがままな人がいたら届け出なさい。
  • 人形しばいやみせ物の芸人を村に入れてはいけない。
  • 百姓はもめん以外の着物を着てはいけない。
  • キリスト教の人を密告しなさい。
  • 竹や木を勝手に切ってはいけない。
  • 食事は汁とおかず一品だけにしなさい。
高札場
高札場
 村で一人前の人間として認められるには,およそ15~17歳で村の青年団である若者組に入り,先輩から村のきまりをしっかり教えられることが必要でした。壬生の各村にも若者組がありました。1771(明和8)年,上田(かみだ)村の又八は,結婚の時,相手の村の若者組にあいさつをしなかったということで,お金や物を取られてしまいました。こうした勝手な行動をする若者組を取り締まるように,幕府は何度も法令を出しています。