4 新田開発

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 17世紀は,「大開発の時代」といわれるほど新田開発が盛んでした。1701(元禄14)年までには,藤井村から原宿新田,星宮新田が,国谷(くにや)村から国谷新田が,羽生田(はにゅうだ)村から七ツ石村がそれぞれ分かれて独立した村になりました。そのほかにも,農民が自分の田畑の近くを開墾する切添新田があり,小さな新田を含めた壬生の石高は,1648年から1701年までの約50年の間に1.5倍になり,江戸時代の終わりには2倍にも増えています。
 特に,原野にめぐまれていた安塚村の開発はめざましかったようです。新田開発は領主にとっても,年貢を増やすことになったので,開発した土地の年貢を数年間免除して新田開発を勧めました。また,農民にとっても,自分の力で土地を開くことは,農民として自立するために大切なことでしたので,積極的に開発を行いました。
 しかし,あまり開発をすると,緑の土地を減らし,洪水などがおこるということで,1666(寛文6)年,幕府は,開墾を制限しています。現代の開発と自然破壊の問題に似ているところがあります。

村の石高のふえ方

 

※ 石高…その土地からどれだけ米がとれるかをあらわしたもの,太閤検地から,使われるようになった。1石は10斗=100升(=180リットル)のこと。1日3合の米を1人が食べるとすると,人は1年に1石の米を食べるという。