6 農民の抵抗

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 江戸時代,人口の90%近くは農民でした。年貢をしぼり取られ生活を制限されていた農民の中には,抵抗する人も出てきました。一番多いのは,農民に年貢の量を割り当てていた村役人との対立です。これを村方騒動といいますが,江戸時代の半ば頃から大変多くなりました。安塚村では,1707(宝永4)年,村と村との争いの費用をだれが負担するのかということについて,農民たちが村役人に対して意見をまとめて提出しています。また,1794(寛政6)年,福和田(ふくわた)村では名主が自分勝手に筏宿をやってお金をもうけたり,村のお金を使ったりしているということで争いました。
 一方,農民が直接領主に訴えたり武力で自分たちの要求を通したりしようとする動きを,百姓一揆といいます。壬生では,現在のところ百姓一揆のはっきりとした資料は見つかっていませんが,82・83頁の「七色の掛物」に抵抗した三義民の伝承は百姓一揆のひとつの例で,領主に年貢を減らしてもらおうと訴えた農民の指導者がつかまって一部が殺されてしまい,代わりに要求が認められたというものです。
 年貢が払えなくなって,農民が集団で村を抜け出すこともありました。村から出て「住所不定」となり,商売をしたり船乗りになったりしてかせぐことでいい生活をしようとする人たちもありました。領主にとってはたいへん困ることでしたが,江戸時代後期になってくると,農村にも大きな変化が起こってきたのです。

江戸時代後期の農村の様子