1 助郷制の成立

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 徳川家康は,早く確実に情報を伝えるために,街道に一定の間隔で人足と馬を置くことと,道路と河川の整備を命じました。下野国(しもつけのくに)でも,町と村を結ぶ街道の宿駅が整えられていきました。
 壬生の宿は,将軍が宿泊する町でしたから,それとは別に街道そのものが整備されていき,伝馬役の人足と馬をいつでも使えるように用意されていました。「宿村大概帳」という古い文書によれば,壬生の宿には,馬25疋と人足25人をいつも置いておくようにと命じられていたことがわかります。しかし将軍が通ったときなどは,とてもそれだけの人や馬だけでは足りないので,近くの村々から人や馬を集めました。
 特に,三代将軍家光の日光社参は,大勢の家来を連れて行われました。そのたびに,村々から応援を頼んでやっと間に合わせたという状態でした。このように,宿駅や村々の負担が大変だったので,幕府は,「助郷(すけごう)」という制度をつくって,宿駅ごとに人や馬を出す村(助郷村)とその割合(助郷高)を決めました。