5 筏の川下げ

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 壬生からは川舟だけでなく乙女河岸(小山市)を通って江戸方面まで,木材や竹類を筏に組んで流しました。下流の野田(千葉県)へ特産の醤油の樽のタガ用の真竹も運びました。乙女河岸では,壬生河岸やその他の河岸から流してきた,小さな筏をここで組み替え,直径約54cmの束をいくつも並べて縄や篠竹で大きな筏にしました。そしてその上に300~400把(たば)の真竹を乗せ,思川(おもいがわ)を下ったのです。

栃木の川下げ

 しかし,筏を流していく時,鮎をとるためにしかけた梁(やな)を,こわしてしまうというもめ事が起きました。この他,堰(せき)や梁をこわされたとか,金銭を取られたという訴えが,何度も役人にあったため,筏の大きさと上に乗る人数などを定めた証文も取り交わしました。
 1718(享保3)年の「筏川下げの堰銭請取帳」によると,筏の数は川舟と同じように水量の多い夏に集中し,3月から11月までの9か月間に筏が164敷も川下げされました。水量が少なく川下げが減少する冬の数を加えると,おそらく1年間で200敷以上が江戸に送られたことでしょう。
3月4月5月6月7月8月9月10月11月
筏数31資料欠205464216資料欠4
上乗人数100-1152018817172-24

 請取帳には,亀和田村(鹿沼市),七ツ石村,上稲葉村,赤塚村(鹿沼市)が月番交替で筏の持ち主に,上乗人の人数や上乗人一人につき50文の堰銭をとったことが書かれています。
 黒川で使われていた部賀舟(べかぶね)は大正5年頃に,また竹筏は昭和12年頃に藤井河岸から流されたのが最後であったといわれています。