2 手習塾

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 江戸時代のはじめのころ,庶民(農民や商人,職人など)の子どもに文字やそろばんを教えたのは寺で,これを寺子屋といいました。18世紀になると,農村に商品やお金が入ってきて,庶民にも文字の読み書きや計算をすることが必要になってきました。そこで,手習塾という現在の学校のような所が各地にできました。わかっているだけでも当時の壬生にあった塾は下の表のとおりです。先生は,お坊さんが一番多かったようです。農民出身の先生もあって,日記を残した粂川政之助も助谷村で塾を開いていました。
 塾には,7~10歳位の子どもたちが通いました。読み書きのけいこ(手習い)の教科書は,「往来物」といわれるものが多く,文章や単語が書き並べてありました。興生寺(こうしょうじ)に残っている往来物の下書きには,「村名集 野州都賀郡藤江字中妻,堀之内,稲荷宮・・・安塚,鯉沼,国谷(くにや),助ケ谷,小林,上田(かみだ),中泉・・・」と書いてあります。文字を覚えながら地名の勉強もしたのでしょう。
壬生にあった手習塾
塾の名場所できた年先生の名身分教えた内容
藍沢塾壬生天保年間藍沢仁兵衛,登美夫婁農民手習
石崎塾壬生幕末石崎暢(松本省庵)藩医手習,漢学
星川塾壬生仲町星川栄三壬生藩士手習,漢学
興光寺壬生36世良頓上人,野留阿教雲僧侶手習,漢学
豊楢院壬生城南24世雲外和尚手習,漢学
大島塾壬生表町嘉永元年大島半之丞農民手習,漢学
渕本塾壬生北条幕末不明不明手習,漢学
円宗寺(えんじゅうじ)上稲葉31世賢海他僧侶手習
黒子塾黒子正兵衛名主手習,算法,国学
小松塾稲葉小松寛斎不明不明
梁島塾下稲葉慶応年間梁島治郎兵衛農民手習,漢学
本多塾藤井幕末本多栄助手習,漢学
下寮房浄心僧侶手習
不動院上田敞運・秀恵手習
粂川塾助谷文化文政期粂川政之助農民手習

石崎塾のあった石崎達家