3 庶民の文化

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 江戸時代には,農民や町人の中からも教養を身につけた人々がでて文化が栄えました。
 手習い塾のほかにも,町や村に道場が開かれ,武道のけいこに励む人もいました。壬生では神新影一円流がさかんで,粂川政之助は25歳で免許をとり,当尊と名乗って多くの弟子を集めていました。また,1702(元禄15)年,藤井に生まれた福井兵右衛門(ふくいへいうえもん)は,神道無念流を考えて,江戸で道場を開いたといわれています。
 江戸と街道で結ばれ,また黒川の水運の中心地であった壬生には江戸の文化も伝わり,この地方で活躍する画家もいました。平出雪耕(ひらいでせっこう)は藩に雇われた画家で,藩の家老であった高須甘棠(たかすかんとう)や壬生本陣の松本甘暁(まつもとかんぎょう)とともに,壬生を代表する画家です。現在も町内にこれらの人々の作品が残されています。
 最近,壬生町の中心街の大通りは「蘭学通り」と名付けられ,歩道の整備などがなされています。蘭学は江戸時代のオランダ語による西洋の医学などの学問ですが,壬生にはこの医学に優れた人々が出ました。その一人に斉藤玄昌(1809-1872)がいます。
 玄昌は壬生藩のおかかえ医師になり,栃木県で最初に人体の解剖を行い記録を残しています。また,1850(嘉永3)年には,当時大変おそろしい病気であった,ほうそう(天然痘)の予防接種を壬生藩の領内で行っています。玄昌のことは,実はつい最近まではっきりと判っていなかったですが,町の歴史民俗資料館の研究などで明らかにされてきました。これからも,こうした庶民の文化が発見されていくかも知れません。

平出雪耕の画

松本甘暁の画

高須甘棠の画


斉藤玄昌解剖図

玄昌の墓(常楽寺(じょうらくじ))

 

※ 解剖…現在の東雲(しののめ)公園付近(壬生上河岸前)で行われた。