2 壬生藩の尊皇攘夷派の人々

121 ~ 122 / 201ページ

石崎誠庵

増田知

 
 開国後,大名や武士の中には,朝廷の権威をとりもどそうとする尊王論や,外国人を打ち払えという攘夷論が広まります。壬生藩でも若い藩主・鳥居忠宝(ただとみ)(1845年生まれ)を支えて,時の流れに乗っていこうとする尊王攘夷グループが結成されました。リーダーは,大島金七郎・石崎誠庵(松本暢)で,メンバーの中には,後に初代横浜市長になった増田知などがいました。これらの人々は,藩政改革を行うために,江戸家老と国家老の二人を自殺に追い込み,1863(文久3)年に入ると藩の政治の実権を握るようになりました。
 長州藩による攘夷の決行,薩英(薩摩と英国)戦争など,激しい変化の中で,1863年3月,壬生藩の藩主に対して幕府から,武器を持って江戸に来るようにと命令がありました。5月になると大阪城を守る「大阪加番」を命じられます。そのたびに,藩内の村々に人足や足軽などの割り当てがあり,また経費も村が負担をしなくてはなりませんでした。召集された足軽の中には,無断で帰国した人や,出頭しなかった人もいたので,藩が取り調べをしています。