3 水戸天狗党事件と壬生藩

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水戸天狗党が進んだ道

 1864(元治元)年,「水戸天狗党事件」がおこりました。この事件は,水戸藩の尊王攘夷派が幕府に対して攘夷をするように要求しておこした事件です。藤田小四郎などの水戸の藩士達は,筑波山に集まって同じ考えの人々とともに,約170名で日光山に向かい,その後太平山に移りました。当時,壬生藩は尊王攘夷派の人々が力を持っていました。その一人であった鎌田寸四郎が,藩士の名を捨てて(これを脱藩といいます)天狗党に加わりました。彼は藩主がいない壬生藩領を通らないようにさせるとともに,壬生への放火を防ぎました。一方で,壬生藩の尊王攘夷派は,天狗党に多くの軍資金を送りました。その後,藩主が大阪から戻った時,天狗党にお金を送ったことが問題になり,大島金七郎・石崎誠庵などの尊王攘夷派は藩を追われてしまいました。
 幕府は,関東地方の11の藩に天狗党を討つように命令を出しました。壬生藩は藩領であった「山川陣屋」(茨城県結城市付近)へ各村から集められた足軽などを送り,雲雀塚(茨城県)をはじめ各地で数回にわたって天狗党と戦いました。写真の陣笠は,9月25日の戦闘の時,鉄砲で頭を撃たれて死んだ中村為之丞のものです。

中村為之丞の陣笠

 こうした動きの中で,天狗党は,降伏するグループと京都を目指す人々に分かれて力を弱め,やがて,中心になった人々が処罰され事件は終わります。
 1865(慶応元)年,藩主の鳥居忠宝(ただとみ)は,江戸城で将軍家茂から「家来をよく指導してすばらしい働きであった」とほめられ,ほうびを受け取りました。
 天狗党事件について,当時こんな歌がよくうたわれました。どういう意味なのか,考えて見ましょう。

  ・江戸で庄内,京都で会津,雲雀塚では,鳥居さん
  ・千早振る 神の技かと 天狗らは,鳥居の旗に 恐れこそすれ