2 廃藩置県

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 1869(明治2)年6月,壬生藩主鳥居忠宝(ただとみ)が藩知事に任命され,翌年かつて尊王攘夷派として活躍した松本暢の仲立ちで,版籍奉還が行われました。そして,武士に支給する給与の改善や,新しい戸籍の作成などの改革が進められました。また経済の変化にともなって,壬生藩だけに通用する紙幣(お金)が発行されました。

壬生藩の紙幣

 

太田源三郎

旧士族の戸長任命書

 
 このように各方面で改革をしようとした壬生藩ですが,1871(明治4)年7月14日の廃藩置県によって廃止され,新たに壬生県が置かれました。これにより必要がなくなった城郭は,不用地として払い下げが行われました。
 廃藩置県後の士族たちは,それぞれ自分の手で生きていく道を求め,農業や商業についたり新政府の役人になったりした人たちもいました。また,新しい教育制度のもとで,教員になっていった士族もたくさんいました。
 ユニークな人物としては,三重県の役人をした後,胃の薬の太田胃散の製造販売をして大成功した太田源三郎(後の泰蔵,信義)などがいます。
 幕末の壬生は壬生藩領だけでなく,北小林・中泉・安塚・上田(かみだ)の各村は旗本領,羽生田(はにゅうだ)村は佐倉藩・下妻藩の飛地でした。したがって,1871(明治4)年7月14日の廃藩置県直後には,現在の壬生には,壬生県を中心として,日光県・佐倉県・下妻県が置かれていた時期があったわけです。その4カ月後の11月には,下野国(しもつけのくに)は栃木県と宇都宮県の二つにまとめられ,そして,1873(明治6)年6月15日ほぼ現在と同じ地域が,栃木県として一つにまとめられました。