5 加波山事件

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加波山

 鯉沼九八郎は,下稲葉村で爆裂弾製造にとりかかり,1884(明治17)年9月15日栃木県庁開庁式に出席する大臣たちを襲う計画をたてました。しかし,9月に入って鯉沼は爆裂弾製造中に事故を起こし,左手首に重傷を負ってしまいました。このときに治療にあたったのが,壬生町で初めて演説会を開いた石崎鼎吾(いしざきていご)です。
 鯉沼九八郎の仲間たちは,その後,警察の目を逃れるために身をかくしていました。9月23日には,爆裂弾約100個をもって茨城県の加波山(かばさん)にたてこもり「自由魁(さきがけ)」「圧制政府転覆」などののぼりを立てました。その夜,彼らは下妻警察署町屋分署を襲いました。しかし,警察からの激しい攻撃を受け戦いが不利になると山を下り,26日の朝,芳賀郡小林村(現真岡市小林)で解散し逃亡しました。鯉沼九八郎,妻時子をはじめとして,事件に関係したとみられる多くの自由党員は,10月までにほぼ逮捕されました。鯉沼九八郎は,北海道空知刑務所に送られました。出獄後の1899(明治32)年県会議員となり,「加波山将軍」といわれました。
 
鯉沼九八郎の事故の時,
掛け軸についた血肉