2 条約改正をめぐる対立

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 明治20年代にはいると,条約改正問題が本格的に議論されるようになり,改正反対と改正断行の対立が自由党(反対)と立憲改進党(断行)の対立へと発展していきました。この条約改正をめぐる反対,断行の運動は全国的に展開されましたが,栃木県でもそれぞれの考えを持つ人々が激しい運動を展開しました。この条約改正反対の立場を強く主張したのが,下都賀地域に作られた自由党の政治組織である下野倶楽部で,壬生では石崎鼎吾(いしざきていご)や助谷の粂川与惣左衛門(くめかわよそうざえもん)たちでした。
 1887(明治20)年11月,石崎鼎吾たちは,条約改正反対の建白書を提出しました。これには,条約改正断行の反対だけでなく,五ケ条の御誓文をきちんと守って政治をすすめてほしい,と訴える内容が加えられており,他に見られない特色あるものでした。
 
条約改正問題とはどのようなことなのでしょう。
 1858(安政5)年,大老の職にあった井伊直弼(いいなおすけ)が結んだ日米修好通商条約※1は,日本にとって大変不平等な条約でした。政府は1880(明治13)年頃からこの不平等条約を改めようと,各国と交渉を始めました。鹿鳴館※2を代表とする欧化政策(西洋風の生活や習慣をまねて西洋に追いつこうとする政策)や外国人の裁判官を雇うことなどを改正の条件としましたが,これに対する批判が強くなりました。この意見の対立が条約改正をめぐる問題に発展していき,ついにこの交渉は中止になりました。完全に不平等条約が改正されるのは,1911(明治44)年まで待たなければなりません。

 

※1 日米修好通商条約…日本で罪を犯したアメリカ人はアメリカの法律で裁くことや,輸入品にかける関税を日本が決められないなどかなり不平等な内容であった。
※2 鹿鳴館…各国の代表を招き西洋風のダンスパーティーを日夜開いた建物。