3 衆議院議員選挙と新井章吾

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 加波山(かばさん)事件などが起こったころから,自由党が解散されるなど,自由民権運動は次第におとろえていきました。そのような中,吹上村(今の栃木市吹上)の新井章吾は自由党再興について演説会を開き,下都賀地区の人々の支持を得ました。
 第一回の衆議院議員選挙は,1890(明治23)年7月1日に実施されました。この選挙に向けて各地で演説会が盛んに開かれました。特に,壬生町内では再興自由党をおす運動が進められ,6月15日興光寺で開かれた演説会には300名以上の聴衆が集まりました。
壬生倶楽部の広告
「この倶楽部では,新井章吾,岩崎万次郎の二人を推薦して衆議院議員の候補者と決定することにした。」という内容が書かれています。


新井章吾

 当時,選挙権は25才以上の男子で,直接国税15円以上納めた者にだけ与えられていました。下都賀郡の有権者は2,076名,壬生における有権者数は,壬生町65名,稲葉村82名,南犬飼村が73名でしたが,各地で開かれた演説会はこの人数をはるかに上回る人々が集まり,政治への関心の高さがうかがわれます。この選挙で新井章吾はもう一人の自由党員とともに多くの人々の支持を得て当選しました。
コラム  明治のはじめの学校
★当時の学校や教育はどのようなものだったか,チョットのぞいてみましょう。明治10年当時学校に通った人の割合は?
壬生町域内の学校に通っている人数と割合(明治10年)
学校名 位置 学区内の町村 学校に通っている人数 学校に通っていない人数 学校に通っている割含
(男―女) (男―女) (男―女)
壬生学舎 壬生町 壬生通町,壬生表町,
壬生町新町
299 270 52.5%
(186―113) (94―176) (66.4―39.1)
稲葉学舎 下稲葉村下稲葉 65 66 49.6
(46―19) (22―44) (67.6―30.2)
発鋭学舎上稲葉村上稲葉,羽生田(はにゅうだ),
助谷,国谷(くにや),福和田(ふくわた)村
217 374 36.7
(177―40) (113―261) (61.0―13.3)
立道学舎中泉村中泉,上田(かみだ),小林,池森(いけのもり) 135 145 48.2
(110―25) (38―107) (74.3―18.9)
安塚学舎安塚村安塚村 41 95 30.2
(33―8) (38―57) (46.5―12.3)
藤井学舎藤井村藤井村 43 98 46.8
(29―14) (33―65) (34.5―17.7)
 壬生学舎が約52%と1番学校に来る割合が多く,低いところでは30%という数です。現在と比べると,学校へ行かなかった人がずいぶん多かったことが分かります。また,女子の学校へ行く割合は大変少なかったようです。
 ☆当時の校則は?(稲葉学舎の例)
 ・けんかや争いごとはもちろん,高笑い,大声で歌うことなどをしてはいけない。
 ・怠けや理由なく3日以上学校を休んだ者は,一日中学習あるいは5日間清掃を申しつける。
 ・入校したら一切教員の命令を守る。背けば,すぐに退校。
 ・時刻に遅れた者は,当日の授業を許さない。
 ・毎年1月4日開校,12月25日閉校のこと。
 なかなか厳しい校則ですね。