6 戦争の拡大と生活

156 ~ 158 / 201ページ
 1931(昭和6)年,満州にいた日本軍は中国軍のしわざと見せかけて鉄道を爆破し,中国軍を攻撃しました。満州事変です。この事件をきっかけに,日本は戦争への道を進み始めました。

国防婦人会

 戦争は人々の生活にどのような影響を与えたのでしょうか。
 戦争が始まると,軍隊に召集される人が多くなりました。壬生町からは,宇都宮の第14師団に36名が動員召集され戦場へと向かいました。1937(昭和12)年,日華事変が起こり中国との全面戦争が始まりました。召集される人々も,戦争の激化にともない増えていきました。戦争の様子は日本軍の連戦連勝と報道されました。しかし,戦死者の数はこの後も増加していきます。12月10日南犬飼村は,この戦争で初めての戦死者の遺骨を,安塚駅と国谷(くにや)駅に迎えることになりました。
 戦争に向かったのは,人間ばかりではありませんでした。壬生町からは,150頭をこえる馬が軍馬として戦地に送られました。馬のえさとなるわらや干し草も村から出しました。壬生町内には出征兵士戦死者の記念碑とならんで,徴発軍馬碑が建てられています。
 1941(昭和16)年12月には,日本はアメリカ合衆国のハワイ真珠湾を攻撃し,アメリカ・イギリスとの戦争も始まりました。戦争が激しくなると,戦争を支え協力していく後援会の活動が各地で盛んになり,献金や慰問袋作りなどが行われました。壬生町でも1936(昭和11)年,戦争に向かう兵士たちに親身になって協力しようという「国防婦人会」や,1939(昭和14)年軍事援助をする「壬生町銃後奉公会」などの組織が作られました。また,空襲に対する備えとして,くり返し「防空演習」が実施されました。壬生町内に初めて警戒警報が出されたのは,1942(昭和17)年1月1日で町民の緊張が高まりました。その後もアメリカ軍の爆撃は増え続け,空襲に備えて防空壕も作られ始めました。
 戦争は人々のくらしを変えていきました。銅や鉄などの金属類の回収も行われ,生活用品のなべなども集められ,農業で必要な肥料も制限されました。国の財政を支えるための貯蓄運動も進められました。しかし,この貯蓄運動で預けたお金は,実際には戦後の経済の混乱で,紙切れと同じ価値のないものになってしまいました。