1 戦後の改革と民衆のくらし

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 第二次世界大戦後の壬生は,どのような様子だったのでしょうか。
 1945(昭和20)年8月15日,終戦の日をむかえました。南犬飼地区には飛行学校がありましたが閉鎖され,ここにいた兵士たちは自分の郷里へと帰っていきました。
 アメリカ軍は10月に日本に来て,つぎつぎと国内から武器をなくす仕事を進めていきました。
 戦後の人々の生活は,食料不足,物資不足,物価高と大変苦しいものでした。都会に住む多くの人々は,少しでも食料を得ようと農村に買い出しに出かけました。そのため,農民は,町から買い出しにくる人の応対や,物が盗まれないように見張りをすることなどにおわれ,畑仕事もよくできないこともあったそうです。また,米や衣類,自転車といった生活に必要なものが盗まれることが多くなりました。そこで,村の人たちは自警団をつくり,夜中の巡回を始めました。このころは,食料や物資の不足で物乞いをして生活する人々もたくさんおり栄養失調に苦しむ人も増え,みんなが生きることに必死な状態でした。
 食料不足をなんとか解決しようと,国も県も米を進んで出すことと開拓に力を入れました。南犬飼村の助谷付近では,昭和21年3月ごろ進んで出す米に関する話し合いが行われ,各地区ごとの割り当て俵数は次のようになりました。
安塚  40俵国谷(くにや)  35俵
上田(かみだ)・中泉・助谷 各30俵北小林・上長田 各20俵
(1俵=60kg)


演芸会場

 社会混乱が続く中,壬生の民主政治の発展や社会の安定に大きく貢献したのが青年団でした。戦後の新しい制度による総選挙の演説会なども青年団主催で成功させました。また,苦しい生活を明るく乗り越えようと楽しい催し物も企画しました。1946(昭和21)年4月には,落語・漫才・浪曲・歌謡などの演芸会をもよおし,9月には相撲大会・ピンポン大会・競技会なども開きました。
 1948(昭和23)年のころからマッチや電球,魚などが市場に出まわるようになり明るい生活がみえてきました。
 1950(昭和25)年には,米以外の物は自由販売になりました。この時のある農家の日誌には,「長く配給制度であったたばこが,本日より自由販売となる」と記されています。たばこの自由販売を待ちのぞんでいたことが想像されます。