[ 年表 ]壬生偉人伝 壬生のあゆみと文化
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- 円 仁(794~864)
- 平安時代
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旅行記の傑作、「入唐求法巡礼行記」を書く
下野国(栃木県)都賀郡に壬生氏の子として生まれた。最澄の教えをうけ、838年唐(中国)に渡って仏教を学ぶ。天台宗の基礎を固め、比叡山延暦寺の第3代の座主(位の一番高い僧侶)になった。そして、死後の866年、天皇から日本で初めて「慈覚大師」という称号が贈られた。
また、唐に渡ったときの記録「入唐求法巡礼行記」は、西遊記で有名な三蔵法師の「大唐西域記」、マルコポーロの「東方見聞録」とともに、アジアの三大旅行記のーつと言われている。
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- 壬生胤業(?~1494)
- 室町時代
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壬生氏の全盛時代を築く
胤業は、下野(栃木県)の戦国時代が始まる、15世紀前半に活躍した人物である。胤業が、1462年に壬生の新町堀之内に屋敷を構えたことにより、壬生城の歴史が始まったという。壬生氏は胤業のあと、綱重、綱房、綱雄、義雄の5代にわたり、戦国大名として壬生城を支配した。
現在の壬生城を築いて本拠としたのは、2代綱重とされている。やがて壬生氏は、1590年豊臣秀吉の小田原征伐の時、北条氏に味方したため、北条氏の敗北とともに滅んだ(壬生常楽寺)。
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- 鳥居忠英(1665~1716)
- 江戸時代
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壬生藩の近代教育の礎を築く
藩主忠則の二男として信州高遠(長野県伊那市)に生まれた忠英は、父忠則の不始末により、改易(とりつぶし)され高遠から能登の地に1万石の大名として移された。しかし、忠英の非凡な才能は幕府の認めるところとなり、2万石の大名として近江(滋賀県甲賀市)の水口城主となった。さらに幕府の要職である若年寄につくまでとなった。
1712年、3万石に加増された忠英は壬生城主となり、領内の殖産興業策として「干瓢」を普及させ、また藩校である「学習館」を開くなど、壬生藩(壬生町)の礎を築いた。
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- 齋藤玄昌(1809~1872)
- 江戸~明治時代
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ほうそうの予防接種を広める
壬生藩の医師の子として羽苅村(足利市)に生まれた。江戸に遊学し蘭学(西洋の学問)と医学を学ぶ。1834年壬生藩鳥居家の医師となり蘭方医として活躍した人物である。西洋医学の正確さを知った玄昌は、1840年壬生上河岸の刑場で人身解剖を行い、『解体正図』という記録を残した。また、1850年には、当時大変おそろしい病気であった、ほうそう(天然痘)の予防接種を下野国で最初におこなった。
明治維新後は、医学の近代化をはかるため私立学校の経営を企画するが果たせなかった(壬生常楽寺)。
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- 鳥居忠挙(1815~1857)
- 江戸時代
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壬生藩の藩政改革を行う
藩主の四男として生まれ、のちに幕府の要職である若年寄についた。忠挙が城主となった1826年ころは、壬生領の荒廃が進み、天保の飢饉の影響も大きかった。そのため、藩政改革の必要に迫られ、北陸(新潟)地方の入百姓の導入、藩財政を補う「殿様無尽」の実施、御用金に代わる鶏卵上納、冥加金上納者に苗字帯刀を許すなど、改革を次々と行った。とりわけ文教政策には優れた見識をもち、藩校「学習館」を拡充改組し、江戸藩邸内には「自成堂」を開いた。また蘭学を重視した学問の振興と人材の登用をすすめた。
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- 友平 栄(1816~1882)
- 江戸~明治時代
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お台場の大砲をつくる
宇都宮藩(宇都宮市)の藩士の子として生まれ、壬生藩士友平家の養子に入る。江川英龍に入門し蘭学や兵学を学ぶ。1850年藩の高島流(西洋)砲術家となり、内憂外患に備えるため、軍備増強策として下野国で最初に西洋の砲術(大砲・鉄砲)を採用した。
また一方で幕府講武所に抜擢され、ペリー来航後の海防策として1853年、品川台場築造に伴い大砲製造を行う。その後幕府の滝野川反射炉(東京都北区)建築の際に主任技師として働いた。明治維新後、陸軍大佐となる。
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- 河内全節(1834~1908)
- 江戸~明治時代
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明治天皇の御用医師となる
田安家の医師の子として生まれた。医を田安家侍医の高野高全に学び、のちに幕府医学館に入門し小児科と内科を学ぶ。1862年壬生藩鳥居家の医師となり漢方(中国)医として活躍した人物である。明治維新後の1876年に東京府麹町に開業し、明治天皇の皇女滋宮、増宮、皇子昭宮誕生に伴い御用医師として抜擢された。晩年は医史学研究の第一人者となり多数の医書を著した。中でも、1885年に出版された『日本医道沿革考』は東京大学医学部で教科書として採用されたことで有名である。
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- 齊藤留蔵(1844~1917)
- 江戸~大正時代
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国内初の海外留学生となる
壬生藩の藩士の四男として生まれた。1855年江川太郎左衛門の塾に入り、砲術と蘭学を学ぶ。その後人柄を見込まれ韮山代官所の見習いとなり、1860年咸臨丸渡米の際には鼓手として抜擢され最年少の乗組員となった。時に留蔵16歳。帰国後、江川氏の家臣・森田貞吉の養子となった。そして再び明治新政府の命令をうけ、1871年岩倉使節団同行留学生となり米国で砲術を学んだ。その後留蔵は海軍省を辞め、1875年私費をもって米国に渡り農業を学び、1880年日本で初めての牧羊場を試みた。
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- 鳥居 忱(1853~1917)
- 江戸~大正時代
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音楽界の中心となって活躍する
壬生藩の家老の子として生まれた。〈箱根八里〉の作詞者として知られる忱は、音楽教育界で、作詞家、理論家、国語学者として幅広い先駆的な活動をした人物である。音楽取調掛のルーサー・ホワイティング・メーソンについて洋楽を学び、唱歌(音楽)の普及のために講演・執筆し、自ら唱歌会を興して積極的な活動を行った。また、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部)では教授として国語や音楽を担当し、〈君が代〉を含む「祝日大祭日唱歌」の選定や唱歌集の編集・出版など同校の事業に関わった。
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- 松翁・20代木村庄之助(1876~1940)
- 明治~昭和時代
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古今随一の名行司となる
北押原村(鹿沼市)の農家に生まれ、4歳のとき稲葉村(壬生町)の鯉沼家の養子となる。9歳で8代式守伊之助のもとに入門し、1886年1月場所に式守子之吉の行司名で初土俵を踏む。三役格の錦太夫のころから既に土俵態度と団扇さばきの鮮やかさに定評があり、当時与太夫、堪太夫も負けず劣らすの技量をみせたところから「三太夫」とうたわれた。1932年20代木村庄之助を襲名。その後大日本相撲協会は「庄之助に松翁を」の推薦状を吉田司家に提出、これが承認されただ一人の〈松翁〉(庄之助に与えられる名誉号)誕生となった。
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- 人見城民(1894~1972)
- 明治~昭和時代
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「日光彫」の第一人者として活躍する
壬生町の農家に生まれた。日光堆朱伝承者の上野桐恵に入門し、16年間にわたり日光彫と漆の修業をした。城民は、大正から昭和期に、観光都市日光を舞台に「木堆朱」の伝承者として活躍し、日光堆朱を伝統工芸の域まで高めた漆芸家である。「木堆朱」は浮き彫りの上に顔料を混ぜた漆を重ねていく独特の技術であり、城民は彫りの深さと鋭さを引き出した第一人者。1960年工芸振興に力を尽くしたことにより、栃木県文化功労章を受賞した。
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- 高久空木(1908~1993)
- 明治~昭和時代
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“帯の空木”として絶大な人気を博す
稲葉村(壬生町)の教師の子として生まれた。空木は染色家として、ローケツ染を中心とする染法によって、文展・日展への入選・特選と受賞を重ね、日展審査員・日展会員としての地位を確立した。そうした中、1957年稲葉中学校(現壬生中学校に統合)から《校旗デザイン》を依頼された。1962年を最後に日展を脱退し、その後は和装服飾にその方向性を移していった。そして空木の名を再び甦らせだのが「染帯」であった。洒脱でモダンな染名古屋帯は“帯の空木”の名を不動のものにした。