(2)第二期 城主の交代期

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① 結城氏 天正18年(1590)~慶長6年(1601)
 壬生氏の滅亡した天正18年から日根野氏が入封する慶長6年までの11年間、壬生領は下総結城(茨城県結城市)に本拠のあった結城氏の支配下にあり、壬生城は廃城になったと考えられることから、城主としては空白の期間となる。
 この11年間に、豊臣秀吉の死去から関ヶ原の戦いを経て徳川家康による政権の成立へ、という大きな歴史の転換があり、徳川家康の次男、秀康を養子にしていた結城氏は、領地を10万石から67万石へと大きく加増されて、越前北ノ庄(福井県福井市)へと移された。
 
② 日根野氏 慶長6年(1601)~寛永11年(1634) 1万石余
 江戸時代になって初めて壬生城主となったのは、信濃高島(長野県諏訪市)から移されてきた日根野吉明であるが、壬生入封の年については、慶長5年・6年・7年の3ヵ年の説があり、石高も1万石から1万5千石まで3つの説がある。その内容は下の表〔表-1〕のようになっている。
 
 このうち、入封の年は慶長7年が『徳川実紀』を始め、一級史料といわれる史料に多く見られ、『壬生町史』等でも慶長7年としている。
 しかし、よく検討してみると、慶長6年の方が妥当と考えられる所もある。例えば日根野氏の前封地の信濃高島を見ると、慶長6年には旧領を回復した諏訪氏が高島城に入ってきており、同じ年に2人の城主がいるというあり得ないことになるのである。また、多少史料として難があるが、慶長6年としている史料が多いことから、日根野氏の壬生入封年は慶長6年と考えておきたい。
 一方の石高については、決め手に欠けるため、1万石余としておきたい。
 日根野氏は、斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉に仕えた大名で、徳川家にとっては外様大名にあたる上、当主の吉明は15歳余で家督を相続して間がなく徳川家に対する功績がない、ということから、関ヶ原の戦いで徳川方に付いた大名のなかでは、唯一、2万8千石から1万石余へと大きく領地を削られて壬生に来ている。言わば左遷された大名が封ぜられる城であったということは、当時の壬生城が日本の中でいかに低い立場にあったかを如実に示している。
 しかし、そのような壬生城の地位が大きく変わる出来事が日根野氏が城主の時にあった。日光東照社の造営である。
 元和元年(1615)に死去した徳川家康は、先ず静岡の久能山に葬られるが、遺言によるとして日光に改葬されることになり東照社が造営された。この造営は、小山城主本多正純を総督に下野国内の大名を中心に工事が進められ、日根野吉明は造営工事の副惣督という責任者の一人として参加している。
 そして、完成後行われた2代将軍徳川秀忠の日光東照社参詣(日光社参)では、江戸への帰途、壬生城に宿泊している。日光社参の時に将軍が壬生城に宿泊することは先例となって、その後もたびたび壬生城に宿泊している。
 これにより壬生城の地は、徳川家の聖地となった日光への道の途中にある、ということになり、壬生城や城下町に大きな影響を及ぼしていくのである。
 日根野氏は吉明一代で33年間、壬生城にいたが、寛永11年(1634)1万石の加増で豊後府内(大分県大分市)に移された。
 
史料名徳川実紀寛永寛政藩翰譜徳川加除封録恩栄録廃絶録断家譜壬生城主壬生城略記
(卒伝)諸家系図伝重修諸家譜歴代書上
入封年慶長7年慶長7年慶長7年慶長6年慶長7年慶長6年慶長6年慶長5年慶長6年
石高1万石1万石1万900石1万5千石1万5千石1万5千石1万5千石記載なし記載なし
表-1 日根野氏の入封年と石高

③ 城番の時代 寛永11年(1634)~同12年(1635)
 日根野氏が去った後の約1年間、壬生城には城番が置かれた。城番には岡本義保(知行地~塩谷郡.3,860石)、福原資盛(知行地~那須郡佐久山.4,500石)という下野国出身の2人の旗本が任ぜられた。
 
④ 阿部氏 寛永12年(1635)~同16年(1639) 2万5千石
 日根野氏の次に壬生城主となったのは、下総国内1万5千石から1万石加増され2万5千石となった阿部忠秋である。忠秋は、これまで城を持っていなかったので、壬生城が初めての居城であった。また忠秋は、俗に「六人衆」と言われる3代将軍徳川家光お気に入りの側近の一人であり、壬生城主の間に老中になったが、程なく2万5千石加増され、武蔵忍(埼玉県行田市)へ転封されている。
 
 なお『壬生城主歴代書上』『壬生城廃城凡覚書』など在地の史料では、阿部氏の壬生在城の期間を寛永11年から同13年までとして、寛永14・15年は市川孫右衛門支配、つまり幕府領であったと記している。
 これについては、岡本義保や福原資盛ともそれぞれ「寛永11年7月晦日に日根野織部正吉明が転封になったあとの壬生城を守衛した」という記述が、『寛政重修諸家譜』に見られ、『徳川実紀』にも同様の記述が見られる。このことから、寛永11年からの1年間は城番が置かれたことに間違いはないと考えられるし、阿部氏の転封先、忍藩の歴史を見ても、阿部忠秋の壬生在城は寛永16年までと考えられる。それではなぜ、“市川孫右衛門支配”が記されているのかについては、今のところ不明である。
 
⑤ 三浦氏 寛永16年(1639)~元禄5年(1692) 2万5千石のち2万石
 阿部氏のあと壬生城主となったのは、やはり「六人衆」の一人であった三浦正次である。正次も1万5千石から1万石加増され2万5千石となり、城主としては壬生が初めてで、当時は若年寄であった。(この若年寄であったことについて、壬生に封じられる直前の寛永15年12月、あるいは壬生入封と同時に若年寄を免じられていたとする説もある。)
 正次は在城2年余で死去し、子の安次が次の城主になるが、弟の共次に5千石を分け旗本として分家させたため、石高は2万石となっている。
 安次の代では、幕府の要職に就くことはなかったが、安次の子明敬(直次)は若年寄になっている。
 三浦氏は、正次・安次・明敬の3代で50年間壬生にいたが、元禄5年(1692)日向延岡(宮崎県延岡市)に転封になった。
 
⑥ 松平氏 元禄5年(1692)~同8年(1695) 3万2千石のち4万2千石
 三浦氏の次に城主となったのは、松平輝貞である。輝貞は、5代将軍徳川綱吉の御側衆の一人で大坂城代在任中に死去した叔父の家に相続者がいなかったことから、綱吉の命令で養子となって壬生城に封ぜられたものである。輝貞は壬生城に来て程なく側用人となり、やがて柳沢吉保に次ぐ側近となり、石高も壬生藩では最大の4万2千石となる。
 壬生城主としての輝貞は、城の改修をしたことで名が残っているが、元禄8年(1695)2月21日に江戸屋敷に5代将軍綱吉のお成りがあった時に、1万石の加増と上野高崎(群馬県高崎市)への転封を綱吉から直接命ぜられている。
 
⑦ 加藤氏 元禄8年(1695)~正徳2年(1712) 2万5千石
 松平氏のあとは、近江水口(滋賀県甲賀市)から加藤明英が壬生城主となった。加藤氏は「賤ヶ岳七本鎗」の一人として有名な加藤嘉明の子孫である。嘉明はもともと豊臣秀吉に幼少から従っていた武将であるため、加藤家は外様大名であったが、壬生城主となった明英は、5代将軍綱吉の人材登用政策により外様ながら若年寄に任ぜられていた。
 正徳2年(1712)明英は若年寄を辞して程なく死去し、孫の嘉矩が壬生城主となるが、ほぼ同時に近江水口へ転封になっており、実質的な城主は明英一代となる。
 
 このように第2期は、廃城や城番の時代、そして日根野氏、阿部氏、三浦氏、松平氏、加藤氏というように、城主が頻繁に交替した時期だった。
 また日根野氏や阿部氏の時代は、入封の年や石高、幕府領の時代の有無など、幾つかの課題のある時期でもある。