正徳2年(1712)に加藤氏と入れ替わりに近江水口から移ってきたのが鳥居忠英である。鳥居氏は徳川家がまだ松平氏といった三河国の一地方大名だった頃から、重臣として仕えていた譜代きっての名門と言える家柄である。
鳥居氏を最も有名にしていることは、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに先立って起こった伏見城攻防戦で、鳥居元忠が伏見城を守る大将として籠城、討死したことであろう。一時は、出羽山形(山形県山形市)で24万石の大名となるが、不運が重なりお家断絶の危機に見舞われたが、そのたびに「特別の家柄」ということで大名として存続している。壬生城主となる忠英も、父の忠則の死後一旦は改易になるが、新たに能登下村で1万石を与えられ大名として復興している。元禄8年(1695)には1万石の加増を受け2万石で近江水口に移され、のちには若年寄にも任じられた。そして正徳2年(1712)さらに1万石の加増を受け3万石で壬生城主となったものである。
鳥居氏は忠英のあと、忠瞭、忠意、忠燾、忠威、忠挙、忠宝と7代にわたって壬生城主として続き、この間、忠英・忠挙が若年寄、忠意は若年寄から老中に任ぜられている。
明治2年(1869)に版籍奉還が行われ、壬生城主としては忠宝が最後となった。
以上見てきたような城主の変遷が壬生城にはあった。城の続いていた400年間のほとんどは、壬生やその周辺を治める者の居城、あるいは政治の中心である藩庁として城が機能していた。
江戸時代は、ほとんどが3万石以下の小大名の居城であった。しかも、当初は日根野氏のように外様の左遷された大名が封ぜられるような城であった。
しかし、その後は老中や若年寄といった江戸幕府の要職に就く、あるいは就いている大名が封ぜられる城となっている。そのうち、時の将軍のお気に入りで、城主になるのは壬生城が初めてで、その後加増されて他所に転出する、というパターンが多く見られることは、壬生城主の変遷での特徴と言えよう。