現城跡への築城は、壬生綱重により文明年間(1469~1487)によりなされたというが、築城当時はもちろん、壬生氏時代の城の構造を示す史料は、現在のところ見つかっていない。
ところで、昭和59年から62年の間に行われた発掘調査では、本丸内部やその周辺から、明らかに江戸時代以前と見られる濠の跡が何本か検出されている。特に本丸内部からは、江戸時代の壬生城本丸を東西に分割するような、幅10m、深さ5mを超える濠跡が見つかっている。出土遺物から壬生氏の頃の濠と考えられており、濠の延びる方向から、江戸時代の本丸の約半分の広さを持つ曲輪が想定され、壬生氏時代の本丸跡、という考え方が示されている。
またこの時代の面影は、小字名にも見られる。本丸北方の「北條(字元城内北條)」と同じく西方の「西條(字元城内西條)」である。これらは、それぞれ「北城」・「西城」のことと考えられることから本丸(本城)を中心に複数の曲輪のある城が想定される。
いずれにしても、壬生氏時代の壬生城については、史料に乏しく想像の域を出ないというのが現状である。