日根野氏から三浦氏にかけての江戸時代初期、壬生城は領主(藩主)の居城というほかに、もう一つ重要な役割があった。「将軍の宿城」という役目である。
前項で見たように、元和3年(1617)4月に2代将軍秀忠が、完成した日光東照社参詣の帰途、壬生城に一泊したことを始めとして、日根野氏の代に4回、阿部氏の代に1回、三浦氏の代に3回の合計8回、将軍の壬生城への宿泊が行われている。江戸時代に将軍家の日光社参は19回行われているが、そのうち16回は、三浦氏が城主であった4代将軍家綱までに行われている。日光社参の実に2回に1回は壬生宿城があったことになる。そのため本丸には、その時の旅館となる御殿が建てられている。この御殿は日根野氏の時代には既に建てられていることが史料に見られる。