壬生城の災害に関する記録で最も多いのは、火事の記録である。史料に現われるもので最も古いのは、承応2年(1653)のことである。
「この九日、三浦志摩守安次が下野壬生の城火災ありて城内ことごとく焼失せしよし注進あり」という、『徳川実紀』(厳有院殿御実紀 巻五)承応2年2月11日の条の記事により、この時城内を全焼する火事があったことがわかる。また、この時に本丸御殿も焼失していることが、別の史料から明らかになっている。
この他、壬生城の火事の記録は、次のようなものが見られる。
* | 明和4年(1767) | :東郭「明和四丁亥二月十四日・・大手御門内中御門迄之間不残」 | |
* | 天明3年(1783) | :三の丸~東郭~下台郭「天明三癸卯歳正月三日夜八ツ時頃・・羽左田惣蔵様、角田要人様、夫ゟ新長屋かまど数五軒長屋壱棟、夫ゟ下代裏長屋東壱棟残り、表長屋壱棟残り、西ハ豊栖院北通り残り・・」 | |
* | 嘉永6年(1853) | :東郭~下台郭「嘉永六癸丑歳十二月廿八日暮六半・・城内ハ大手御門残、同所御番所ゟ町御奉行様小笠原甚三郎様御門長屋迄、御居宅郡方御奉行中西与助様ゟ残、御馬屋新長屋ハ不残類焼御組長や前後西の端二棟残り通り南角石崎又十郎様横長屋残り、余ハ豊栖院、四っ谷迄不残類焼・・」 | |
* | 嘉永7年(1854) | :三の丸家老屋敷「嘉永七甲寅歳三月十六日夜八っ時頃、御家老鳥居帯刀様御焼失・・」 | |
* | 慶応2年(1866) | :三の丸武家屋敷「慶応二丙寅年春、荒木勇馬様(御焼失)」 | |
* | 慶応3年(1867) | :三の丸武家屋敷「同三丁卯年四月十四日夜御焼失、山口謹一郎様」 | |
* | 〃 | :下台郭「同三丁卯年六月七日明方、壬生下臺裏御長屋東の方二棟焼失」 |
これらの火事の傾向としては、東郭・下台郭といった壬生城の外側の曲輪で多く発生している。
また古くは、城下町の火事が飛び火したことによるものであるが、幕末になると、城内からの失火と見られる火事が多くなっている。
②自然災害による被害
次に自然災害について見てみよう。自然災害としては、地震・風水害・落雷等があるが、壬生城に被害を及ぼした災害にはどんなものがあるのだろうか。
先ず地震についての史料がある。
「下野国壬生城大手門外馬出土居上土塀并右同左右同断土塀、右構内番所前土塀、長百五拾三間四尺、右之通度々之地震ニ而及破損候ニ付、如先規修補仕度奉伺候以上
安政三丙辰年三月 鳥居丹波守(花押)」
これには、度々の地震により、と記されているが、年号から安政2年(1855)10月に発生した江戸大地震とその余震による被害と考えられる。
次に見られるのは、原因不詳の土塁崩落の記録である。本丸と二の丸の東方で各々2ヵ所崩落した土塁を元のとおり修理することを、享保3年(1717)老中連署で認めた史料から土塁崩落の事実が明らかになったが、場所を図示した付図等がないため、本丸・二の丸東方の土塁の4ヵ所というだけで具体的な場所の特定には至っていない。
また、修理伺の文書がないため土塁崩落の原因はわからないが、簡単に崩れないように工夫して築かれた土塁が崩れたということは、なんらかの自然災害が原因と考えられる。
自然災害による被害については、この2点が現在明らかにできる事柄である。