(5)壬生城の改修

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 400年間城を維持し続けていくためには、前項で触れた災害による破損の修理のほか、建物等の老朽化による補修や建替えが必要である。さらには、時代の推移により城そのものも改造が行われている。
 
①維持・管理のための改修
 壬生城の維持・管理についての記録は次のようなものがある。
  ア 城米蔵の屋根等の修理
   幕府の命令により建てられた城米蔵(千石入り)の屋根等を、寛文7年(1667)と延宝6年(1678)の2回、修理したという記録がある。城米蔵はこの後も存続していたが、これ以外の修理の記録は明らかでない。
  イ 御厩前下水樋・二ノ丸堰・中御門の改修
   ・寛延4年(1751)2月17日:御厩前下水樋の用材搬入
   「御厩前下水樋之入用杉松丸太之内、左之通御小屋入可申付旨(中略)長壱丈三尺五寸四尺四五寸廻」
   ・寛延4年(1751)2月21日:二ノ丸堰・中御門の用材搬入
   「御小屋入御用木(中略)栗丸太三本 長壱丈弍尺五寸 末口四五寸、同壱本 長九尺五寸 太サ三尺廻 是ハ二ノ丸堰 入用 杉丸太壱本 長七尺五寸 三尺四五寸廻 是ハ中御門扉屋称板入用」
 これらは御用材の小屋入れの記録であり改修の記録ではないが、寛延4年には、御厩前下水樋・二ノ丸堰・中御門の改修が行われたと考えられる。
  ウ 本丸塀の修理
   安政6年(1859)3月22日:「御本丸塀崩直候御普請有之」という記録があるが、詳細については不明である。
  エ 二の丸御判物蔵建替え
   万延元年(1860)7月1日:「二ノ丸御門内元御蔵之場所へ御再建ニ成」ために材木を調達した記録がある。
 
② 城の改造
ア 東郭の改造
 「同(元禄五)年より松平右京亮領す。此時追手、三日月堀普請也」(『押原推移録』)
 「当城郭大手御門松平右京大夫輝貞公城主たりし時、元禄年中東郭を築かれ大手御門を建てられしなり、云々」
(『壬生領史略』)

 これら2つの史料は、江戸時代の壬生城を語る際には必ず引用され、松平輝貞の時に東郭が築造されて虎口が設けられ、従来は南にあった追手門に代り、ここに追手門が建てられた、という解釈がなされ、壬生城を語る時には必ず触れられている事柄になっている。
 しかしこの2つの史料を比較してみると、『押原推移録』では“追手門と三日月堀の普請”としているのに対して、『壬生領史略』では“東郭の築造と大手門の建設”というように差異が見られる。
 一方、別の史料には、この通説とは異なる記述が見られる。三浦家で家老を勤めた九津見家旧蔵の文書の中に、『野州壬生御宿城一件』と題された一連の史料があり、日光社参と壬生城の関わりについてのいろいろな記事がまとめられている。そして、この中には“中門外曲輪”と記された東郭に相当する曲輪と東追手門の存在が記されている。
 また、「下野壬生城図 三浦壱岐守」と端裏書のある絵図には、名称の記入はないが東郭の位置には曲輪が描かれており、同じ内容の他の絵図には、ここに門らしい絵が描かれている絵図もある。
 さらに、慶安4年(1651)3月29日の奥書のある『下野一国』に「壬生町通ゟ大手口迄六拾間西に有り」と見られるように、慶安4年の段階で既に大手口が城の東にあったことがわかるのである。
 以上のことから、松平輝貞によって城が改造されたことは間違いないとしても、その内容は『押原推移録』の記すようなもの、つまり、東郭東縁部の改造・大手門の改築・馬出の新設といった東郭の再整備であったと言うことができよう(附・参照)。
イ 三の丸・東郭土塁上施設の改築
 「下野国壬生城土居上麁朶垣之所、長合七百七拾八間、右保方不宜候ニ付、以連々柵ニ仕度 奉伺候以上   文化五辰年十一月  鳥居丹波守(花押)」
  文化5年(1808)1 1月付けで幕府に提出されたこの伺い書には、改造の箇所・間数が図示されている。それによれば、三の丸の大半と東郭の一部の土塁上の施設が、麁朶垣から柵に替えられたことがわかる。これより40余年後の『壬生領史略』には、この絵図の示す所に柵が描かれているのが確認できることから、幕府の許可が下り改造が行われたものと思われるが、その年月は明らかでない。
 
③ 長屋の新築
 幕末の騒然とした空気のなか、文久2年(1862)参勤交代の制度が大幅に緩和されることになったため、江戸屋敷に詰めていた藩士の国元への引き揚げが始まり、その者達の住まいとなる長屋が、多数建設されたことが史料により確認できる。
 *文久2年9月:下台郭に2棟
        「下臺洗湯屋東通リ新規御長屋新建御注文
          桁行弐拾間 梁間弐間半 表へ下家四尺 裏へ下家壱間 竃六軒
          桁行拾九間 梁間弐間半 表へ下家四尺 裏へ下家壱間    」
 *文久3年11月:下横町に2棟
         「壬生表町下横町通リ南際、東ゟ弐棟御長屋御普請出来・・」
 * 同 年春・夏:三の丸・東郭に各々1棟
         「當亥春夏中、御舂屋郭へ壱棟、新長屋へ壱棟、御普請出来有之」
 *慶応元年 秋 :下台郭へ4棟
         「南御門外へ新建御長屋十一竃御普請有之」
 *明治元年 春 :下台郭
         「下臺前々ゟ在来候御長屋前通りの南、東の入口木戸際迄當春御長屋御普請」
 * 同年  秋 :東下台
         「遠下台(東下台)縄解地蔵寺の裏通り用水堀際江御長屋新貴ニ御普請有之」
 * 同年    :下横町
         「表町佐野道横町通り南江都合御長屋六棟、両三年以前より当年ニ出来」
 *明治2年8月:新町裏(上級武士の屋敷)
        「壬生新町裏(中略)尤當己巳とし春ゟ御普請ニ御取懸り八月頃出来」
 長屋の建設は、下台郭を中心に城内に建てられるものが普通であるが、城下町にも建設されている場合も見られる。下横町の場合は、以前から建っていた町屋が立ち退かされて長屋が建設されたことを示す記録が残っている。(これについては、P.24で触れている。)